2011年12月30日 連帯・共同ニュース第207号
■ 「年たけてまた越ゆべしと思いきやいのちなりけり小夜の中山」(西行)。あまりにも有名な歌を引き会いにするのはいささか気も引けるがこの歌が今のこころに響く。解釈は不要であろう。「3・11」は現在も進行中であるが、いろいろあった年である。野田首相は「事故収束」宣言をしたがこれは悪しき政治的幕引きに過ぎない。原発再稼働→原発推進派のための露払いである。幕引きを急いだ政府の背後には原発推進派の暗躍があるが来年は全面的対決の年になる。
■ 原発推進派は懲りない面々というべきだが、汝ら福島第一原発の事態に眼をこらして見よと言うほかない。彼らは理念的には原発=科学技術の粋ということに囚われ、そこからの撤退が社会の退歩につながるという主張している。これは「原発安全神話」が崩壊したために科学神話を拠り所にしている。科学を信仰し、幻想化している面々の妄言である。原子力エネルギ―は人間と自然の交流(循環)関係を破壊するものであり、人間の生存(存在)そのものに倫理的に反するものである。人間の存在と根本的に相容れないものである。社会や人類の進歩とも科学とも関係がない代物である。また、原子力エネルギ―は科学技術による制御可能という主張がある。これは理念的には可能性があるということを、現実に可能になっているというように策術したに過ぎない。これは福島第一原発の事故や核燃料処理を見れば明瞭である。科学技術的な制御は不可能に近いものだ。さらにこの原子力エネルギ―の産業化を現在の社会は不可避にしている主張もある。これは疑わしい。このエネルギ―を社会は絶対的に必要としていないし、別のエネルギ―への切り替えも可能である。それが人類の未来に寄与することは明確であるといえる。原発コスト論は欺瞞的なものであることが明瞭になった。原発の存在理由はあらゆる面で薄弱になった。
■ 脱原発運動は原発震災の続発(第二、第三のフクシマ原発事故)を防ぐことになるが、原子力エネルギ―を構成因にした高度成長型社会の転換をもたらす。この運動は原発再稼働に反対し廃炉に道を開くだけでなく、社会の転換(変革)を促す。脱原発は長い時間を要し、また、空間的広がりも必要とする道である。だから、成熟段階に入った社会をいろいろの面から変えていく運動の中心に位置することが可能である。日本の社会運動の構造やイメージの転換を実現する。この運動への広範な女性たちはその象徴であった。今年は脱原発運動が原発震災から登場した、その運動が出発した年だが、本格的展開な道を切り開くのは来年である。(文責 三上治)