すべてを破壊する戦争に歌でノーを - 音楽ジャーナリストが世界の反戦歌を紹介する本を出版 -

著者: 岩垂 弘 いわだれひろし : ジャーナリスト
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 「日本がまた戦争が出来る国にするべく手はずを整えようとしている。戦争を体験した者として、戦争は絶対にだめだ!と伝えなくては」と、世界の反戦歌の傑作を紹介した『反戦歌 戦争に立ち向かった歌たち』を著した音楽ジャーナリストがいる。竹村淳さん。「反戦歌をとおして戦争の痛みや虚しさを知り、好戦的な人たちが戦意喪失することを願わずにはいられない」という。

 竹村さんは、ラテンアメリカの音楽に詳しいジャーナリストとして知られる。1981年から2005年までの24年間、NHK-FMでラテンアメリカとカリブ音楽のDJを務めた。現在は東京・目黒のラテン文化サロンCafé y Librosで「ラテン音楽パラダイス塾」を開講中だ。
 
 竹村さんは、日本が1945年8月15日に太平洋戦争で無条件降伏した時は8歳で、国民学校(小学校)3年生だった。それから70年余り。日本では戦争とは直接関わりのない歳月が続いてきた。それは世界に誇るべき素晴らしいことであり、素直に喜んでいいことだと思ってきた。
 ところが、ここ数年、日本がまた戦争が出来る国にするべく手はずを整えようとしているように思われ、またぞろ日本に戦争の足音が近づいているような不穏な空気を感じていた。

 そのことを痛切に実感させられたのは、2015年9月19日に参院本会議で、自民・公明両党ほかの賛成多数で安全保障関連法が可決、成立したことだった。「戦争を多少なりとも体験した者として、戦争は絶対にだめだ!と伝えなくてはとぼくは思った。戦争は相手国はもちろん、自国民の人権をも無視し犠牲にし、国土を疲弊させ、国富を消費し、誰をも不幸にする。そのことを一人でも多くの人になんとしても伝えなければ、とぼくは心の底から思った」と竹村さん。
 そこで、思いついたのが世界中の反戦歌について書いてみよう、ということだった。これまで人生で深く関わってきたのは音楽だから、その力を借りて心ある人びとの注意を喚起できるなら、戦争をしたい邪悪な連中と多少なりとも対決できるのでないかと感じたからだという。 

竹村さん

 そこで世界の反戦歌について調べ始めたわけだが、あるわあるわ。出合った反戦歌はおびただしい数にのぼったが、そこから23曲を選び、各曲の歴史やエピソードをつづったのが本書である。
 23曲の内訳は、脈々と歌い継がれてきた反戦古謡が4曲、第1次世界大戦時のものが2曲、第2次世界大戦と原爆に関するもの5曲、インドシナ戦争・アルジェリア戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争に関するもの8曲、その他の戦争に関するものが4曲となっている。

 竹村さんが、まず推奨するのが、ボブ・ディラン(アメリカ)作詞・作曲の『戦争の親玉』だ。1963年に発表された。ベトナム戦争が激化しつつある時期だ。
 本書によれば、ここで歌われているのは、現代の戦争は昔のそれのように侵犯してくる敵との戦いとか、民族同士の争いとか、宗教上の対立といった人間くさい確執に起因するものではなく、戦争をビジネスとしている戦争屋が金儲けのために引き起こす戦争や軍需を喚起するための戦争が多いのではないか、ということだという。
 「ディランの、戦争屋の存在を見抜く慧眼、彼らを戦争の親玉として指摘してみせる表現力はあっぱれ。ディランはこの1曲だけでもただ者でなく、ノーベル文学賞にふさわしい逸材であることが分かる」

 目立って反戦歌が多いのはフランス。“反戦歌大国”と呼びたくなるほどだという。そのフランスから4曲が選ばれている。その1つ、『兵隊が戦争に行くとき』は、イヴ・モンタンが歌ってヒットした曲。作詞・作曲は歌手のフランシス・ルマルクで、1952年につくられた。
 第2次世界大戦が勃発すると、ルマルクは召集され、陸軍の軍楽隊に配属される。が、フランスはドイツ軍に降伏し、動員解除になる。ところが、ユダヤ人の家系の母がアウシュビッツ強制収容所に送られ、非業の死を遂げる。ルマルクは地下に潜って対独レジスタンス部隊に参加する。「彼の生い立ちや家族の歴史にふれると、ルマルクにとって反戦歌をつくることは必然だったことが理解できる」と竹村さん。
 以下は、『兵隊が戦争に行くとき』の中の一節(日本語訳・大野修平)。

 少しばかり死ぬために出発する
 戦争に 戦争に
 それはおかしな つまらないゲーム
 恋する者たちには似合わない
 それでも ほとんどいつも
 夏がまたやって来る時
 出かけなければならない

 日本からは5曲が選ばれているが、目を引くのは、なんといっても美空ひばりが歌った『一本の鉛筆』だろう。彼女は1974年8月9日に開かれた第1回広島平和音楽祭(広島テレビ主催)でこれを歌った。作詞・松山善三、作曲・佐藤勝。彼女は当時、34歳。

 一本の鉛筆があれば
 私は あなたへの愛を書く
 一本の鉛筆があれば
 戦争はいやだと 私は書く

 美空ひばりと反戦歌というと、なにかそぐわないという印象があるが、竹村さんによれば、彼女は1945年5月29日に米軍機による横浜空襲を経験し、戦争の恐ろしさを身をもって知っていた。そうした往時の体験が、反戦歌に向かわせたのではないか、とみる。
 
 私は、ひばりが第1回広島平和音楽祭でこの歌を歌ったことは知っていた。が、彼女が死の直前に、病魔と闘いながら再びこの歌を広島で歌っていたことを本書で知り、心うたれた。それは1988年7月29日の広島平和音楽祭のステージだった。第1回広島平和音楽祭から14年が経っていた。「おそらく自分の余命に思いを馳せ、この反戦の歌を初めて唄った音楽祭で唄う機会を絶対逃すまいと骨身をけずらんばかりにして駆けつけた、と思うのは考えすぎだろうか」と竹村さん。ひばりが52歳の生涯を閉じたのは、それから11カ月後のことである。

 「ざわわ ざわわ ざわわ/広いさとうきび畑は」で始まる寺島尚彦作詞・作曲の『さとうきび畑』も選ばれている。
 1964年にまだ米軍の統治下にあった沖縄を訪れた寺島が、沖縄戦の激戦地、摩文仁の丘で地元の人から聞いた言葉に触発されてこの曲をつくったとされる。完成までに3年かかった。風にゆれるさとうきびがたてる音を「ざわわ」とするまでに1年以上かかったという。森山良子や上條恒彦らが歌って広く知られるようになった。

 竹村さんは「おわりに」の中で、こう書いている。
「本書を書き上げてつくづく思うことは、どんな理由があろうと、一度始まってしまうと戦争は必ずや人類最悪の敵と化すということである。数え切れないほどの人命を奪い、限りなく国土を荒廃させ、膨大な戦費を空費し、人類にとっては百害どころか千害万害で、プラスになることはないに等しいと言わざるを得ない」
 「人類の叡智といえる反戦歌の傑作の数かずをとおして知っていだいた戦争の惨たらしさや空しさを、様々な方法で発信し拡散していただき、戦争は嫌だ!と願う仲間を増やしてもらいたいと願う」
 さらに、竹村さんはこう語る。「日本でも1960,年代から70年代にかけては、反戦歌を歌う歌手がいた。今はほとんどみかけない。出来れば、かつて歌っていた歌手を集めて反戦歌のコンサートを開きたい」

 竹村淳著『反戦歌 戦争に立ち向かった歌たち』 株式会社アルファベータブックス 定価2000円+税

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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