そなぎ(にわか雨) <下>

そなぎ(にわか雨) <下>
原作 황 순훤(ファン・スノン)
訳 小原 紘

 
 見上げると、いつのまにか、墨のように黒い雲が空にひろがっていた。にわかにあたりが暗く、風がざわざわと草木をふるわせはじめた。またたく間に、あたりいちめんが紫色に変わっていった。
 山を降りる途中、柏の葉に雨のしずくがあたる音が聞こえてきた。大粒の雨だった。首筋がぞくぞくした。やがて目の前が見えなくなるほどの大粒の激しい雨に変わっていった。
 どしゃぶりの雨に煙るなかにさっきの見張り小屋が見えた。あそこで雨宿りするほかない。
 しかし、その見張り小屋ときたら柱は傾き、屋根もボロボロに破れている始末だった。なんとか雨がしのげる場所を作って少女を中に入れてやった。
 少女の唇は青く、顔は血の気が引いたように青白く見えた。寒さのせいか肩をしきりに震わせていた。
 少年は自分が着ていた木綿のチョゴリ(上着)を脱いで、少女の肩をくるんでやった。少女は濡れた目で、一度だけ弱々しく少年を見上げただけで、何も言わずじっとしていた。少女はそれまで抱きかかえていた花束のなかから、枝が折れたり、しおれてしまった花を何本か取り出して足元に投げ捨てた。
 少年たちが雨宿りをしていた場所も雨漏りがひどくなりはじめ、もはや雨宿りどころでなかった。
 外を眺めていた少年が、何を思いついたのかトウモロコシ畑のほうに駆け出して行った。立てかけてあったトウモロコシの藁の束に手を突っ込むと、横にあったもうひとつの束を運んできて積み重ねた。確かめるように束に手を突っ込むと少女を招きよせた。
 藁束の中に雨は入ってこなかった。ただ、暗くて狭いのが問題だった。
 束の前に座っていた少年は雨に打たれるばかり。やがて少年の肩からは湯気が立ちのぼっていた。
 少女はささやくような小さな声で、藁の中に入ってくるように云ったが、少年は「いい」と云って入ろうとしなかった。もういちど少女が「入ってきて」と奥のほうに後ずさりをしたはずみに、抱えていた花束がばらばらになってしまった。少女はもう花はどうでもいいと思った。
 ずぶ濡れになった少年の体からきつい臭いが鼻を突いた。少女は顔をしかめなかった。それどころか少年のぬくもりで冷たくなっていた体が少しばかり温かく、和らいでゆくように感じられた。
 
 藁をたたきつけていた騒がしい雨の音がぱったり途絶えた。
 外が急に明るくなった。
 ふたりが藁の束から外に出ると、あたりには日の光がまぶしく降りそそいでいた。

 川岸に来てみると、いつもと違って水嵩は信じられないほどに増え、泥水になっていた。とても石伝いに向こう岸まで渡れそうになかった。
 少年が背をまわすと、少女は素直に負ぶさった。たくしあげたモモヒキのところまで水につかりながら少年は川を渡った。「こわい」といって少女は少年の首に腕を巻きつけてきた。
 
 向う岸にたどりつくころ、いつ、秋の空がやってきたのか、雲ひとつない青空がひろがっていた。

 その日から少女はぷっつりと姿を見せなくなった。少年は毎日のように川辺にでかけてみたが、少女の姿はなかった。

 学校の休み時間に校庭を探し、こっそりと五年生の女子クラスの教室をのぞきにも行った。しかし、少女の姿は見当たらなかった。
 
 その日も少年は、ポケットにしのばせていた白い小石を手で触りながら川辺に向かった。すると、土手の上に少女が座っているのがみえた。
 少年の胸はどきどきした。
 
 「ずっと、病気だったの」と云う
 少女の顔は蒼ざめていた。
 「あの日の雨のせい?」
 少女は、こっくりとうなずいた。
 「もう、よくなった?」
 「まだ……」
 「じゃあ、家で寝てなくちゃ」
 「とても退屈だから出て来ちゃった…。でも本当に、あの時はおもしろかったね…。あのね、あのとき、どこでこんな染みがついたのかしら、なかなか消えないの」
 少女は着ているピンク色のセーターの裾を見せた。そこには赤黒い粘土の染みのようなものがついていた。
 少女は、えくぼを浮かべながら、
 「ねえ、これ何の染みかしら」
 少年はセーターをじっと見ていた。
 「うん、思い出した。あの時、僕が君を負ぶって川を渡ったのを覚えているだろう? その時、僕の背中から付いた染みだよ」
 少年は顔が火照ってくるのを感じた。

 わかれ道のところで少女は、「あのね、今朝、家で棗をとったの。明日、法事があるから……」と、云って、棗を一掴み取り出した。
 少年は、もじもじしていた。
 「食べてみて。私の曾お爺さんが植えたの。とっても甘いわ」
 少年は両手をつぼめて少女の前に差し出した。

 「甘い! それに実もとても大きいや!」

 「あのね、うちの家族、今度の法事が終わったら、今住んでいる家から出て行かなければならないの」

 少年は少女の一家が引っ越してくる前からまわりの大人たちの話でだいたいのことを知っていた。少女の父親が商売に失敗してソウルにいられなくなって、故郷に帰って来ること。そして今度は田舎の家まで人手に渡さなければならなくなった。
 「引越しするのはもういや。おとながすることだから、しょうがないけれど……」
悲しそうな眼ざしが黒い瞳からあふれていた。

 帰り道、少年はその子の言葉を繰り返し思い出した。とても切なくて悲しかった。かじっている甘い棗の味に気づかないほどだった。

 その晩、少年は近所に住むトクスェ爺さんのくるみ畑にでかけた。
 昼間、あたりをつけておいた、くるみの木に登ると、目当ての枝を竿で打ち下ろした。くるみの房がひときわ大きな音をたてて落ちてきた。誰かに気づかれはしないかと、ひやりとした。しかし、次の瞬間、自分にもわからない力に導かれるように、大きなくるみ、もっと落ちて来い、もっと落ちて来いと、ひたすら竿を振りおろすのだった。

 十二夜の月の陰伝いに帰り道を急いだ。月の光の陰がこれほどありがたいと思ったことはなかった。ふくれあがったポケットをさすってみた。くるみの房は素手で触れるとかぶれるというけれど、気にならなかった。今は、ただ、このあたりで一番といわれているトクスェ爺さんのくるみを少しでも早くあの子に食べさせたい、そのことばかり考えていた。
 しかし、どうやって、くるみを少女に渡したらよいのだろうか。それまでそのことに少しも気がつかなかった。病気が良くなって引越しをする前に川辺で会おうと、どうして約束をしなかったのか。「ばか、ばか」。僕って何て間抜けなんだろう。

 翌日、少年が学校から帰ってくるとお父さんが外出着に着がえて、鶏を一羽、わきに抱えていた。
 どこに出かけるのか聞いたが、お父さんはそれに答えず、鶏の重さについてあれこれ云いながら、
 「こんなもんでいいだろうか」
 お母さんは網の袋を差し出しながら、
 「もう何日もコッコッ、と鳴いているから卵を産むばかりですもの。そりゃあ、大きくはないけれど肉付きもいいし」
 今度は、お母さんにお父さんがどこに行くのか聞いてみた。
 「ソダン書堂※の村のユンお爺さんのお宅に行くの。法事のお供えに差し上げようと……」
 「それなら大きなやつを持って行ったら…。斑模様の雄鶏を……」
 少年の言葉にお父さんは、「はっはっは」と笑って、
 「こいつ。そんなこと云っても、こっちのほうが上等なんだぞ」
 少年は何となく気恥ずかしくなって、学校の教科書を包んでいた風呂敷包を放り投げると、牛小屋に行って牛の背中をピシャリとたたいた。牛の蝿を叩くふりをして。

 川の水は秋の深まりとともに、日ごとに水の量が減っていった。
 少年は分かれ道にでかけ、下流の方へ行ってみた。葦畑の端から眺めると書堂のある少女の住んでいる部落は藍色の空の下ではとても近くに感じられた。
 大人たちの話では、少女たちの家族は明日、ヤンピョン村に越してゆくのだそうだ。そこで小さなお店を出すのだと云っていた。
 少年は無意識にポケットのくるみの実をいじくりまわし、もう一方の手で、そばにあるいくつもの葦の花を曲げては、へし折っていた。

 その晩、少年はふとんに入ってから同じことばかりを考えていた。明日、少女の家が引越しするのを見に行こうか。そうすれば少女に会えるかもしれない。

 いつのまにか、うとうとしていると、
 「うーん、本当に気の毒なことだ……」
 いつの間にか、村に出かけていたお父さんが戻ってきたようだった。
 「ユン爺さんのところも気の毒なものだ。広い田んぼもすっかり売り払って、先祖代々住んでいた家屋敷まで人手に渡したうえに、さらに若い者にまで死なれて……」

 ランプの下で裁縫箱を抱えていたお母さんが、
 「ひ孫は、あの女の子ひとりだけだったの?」
 「そうだ。二人いた男の子にも先立たれてしまって……」
 「どうしてそんなに子供に恵まれなかったんでしょうね」
 「そうだな。あの子は何日も患っていたのに、薬もろくに飲ませてあげることができなかったようだ。これでユン爺さんの家も代が途絶えてしまうわけだ……。

 ところで亡くなった女の子、なかなか、おませで賢い子どもだったようだ。何せ、死ぬ前に、今、自分が着ている服のままで埋めてほしいと云っていたらしい……。」
                              <完>
 ※書堂(ソダン)…寺子屋のような私塾      

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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