(その4)「商品」と人間の可能性としての社会主義について

《4》それが出来るなら苦労はしない

 

マルクスについて語る新本は、2010年代も出続けています。

前回紹介した<資本論>入門 デヴィット・ハーヴェィ 2011年9月日本語版初版

 

マルクスへ帰れ 張一兵  2013年7月日本語版初版

新解マルクスの言葉 浅尾大輔 2013年9月初版

若者よ、マルクスを読もうII 内田 樹 , 石川 康宏   2014年初版などなどです。

 

しかし、本来、マルクスを知ってから社会主義、共産主義社会の実現可能性が次の問題となっているわけですが、マルクスを通した資本主義への理解を「維持」する、「保守」するだけで精一杯の状態である段階でもあり、まだまだ、研究も進んでいない状況であるのでしょう。

教育の不備、そして、世代の受け継ぎの不備が指摘されてしかるべきであったのですが、それをインターネット広報せんとすることにも知っての様な限界があると言う事です。

 

それぞれの世代(80代、70代、60代、50代、40代、30代)の横へ広げる討論、対話、情報伝達にも不足があるのですが、

 

さらにそれと共に、新しい世代が出てきており、昭和についても知識でしか知れない若者、平成元年に産まれた者ももう、26歳、立派に、四半世紀生きてきたわけですが、学習する機会が奪われたままの状況が続いている問題点としての「喪われた20年」問題をこれまで、主題としていこうとしていたわけです。

 

 

しかし、マルクスで留まっていては本来、いけないのであって、レーニン、毛沢東の「失敗学」としての実際の社会主義の失敗学としての乗り越えはどうなって来ているのかが説明されなくてはなりません。

それは、「池上彰経済学教室」「社会主義の失敗と教訓」でも触り的に触れていたものです。

 

日本の社会運動、

マルクス資本主義研究的社会運動についてのリーダーシップとしての柄谷行人氏の学習組織の暗礁についても明確にしなくてはならないのですが、全共闘世代は、時代の核心について沈黙を守り、ある意味、挫折を語りたがらない限界も繰り返し指摘されてきたわけですが、この様な大問題を一気に語る事も出来ようもありません。

 

では、ここから《ピケティ「21世紀の資本」と新「資本論」体系刷新について》(その4)を開始しましょう。

 

《5》資本家を追い出し労働者、技術者立国は如何にして実現されるのか?

 

本来は、カジノ資本主義的金融操作だけで、資産を霞め取り維持している「実労働」をしない搾取者階級を追い出すだけであるなら、ピケティ氏の言う累進課税として資産にまで課税を強化したり、法の網をかけていく事によって民主主義と「実労働」としての保全をする事は、簡単な思考実験として可能な様に思えます。

しかし、従来、資本家として技術者や労働者の搾取だけで霞み取っていた貴族=ブルジョワジーなる者の選別は、どの様にできるのか?

 

旧ソビエト的社会主義国になり、言われたことしかしない学習しない怠惰な労働者だけであっては、政治についても経済についても動かない事が、20世紀ソビエトの失敗でもあったわけですが、その事は、何によって克服されるのかが、「教育商品」としての「概念的」ではない具体的言及として問いだていかねばなりません。

 

詰め込み教育としての弊害。

 

また、経済学だけをやっているエコノミストエゴイストとならない為に、歴史や文学、一般教養としての広がりも必要となっているわけですが、無駄な平均化教育としての弊害も指摘されている現状ではないでしょうか?

 

その「商品分析」として「資本論」を応用した問題点として、

人間的営為としての一般教養、哲学教育はいかに在るべきか、

 

更に、必要な技術革新としての「スキル教育商品」としての方向性としてはいかにあるべきかを区分して分析すべきと言うわけであるのですが、社会主義立国、技術者立国としての理想は、「生涯教育社会」であり、「完全雇用社会」と「創造的技術革新論」としての体系化は如何にしてなされるかと言う問題ではないでしょうか?

 

それには、人間の可能性としての分析(前回の昭和的裸の人間像としての高倉健菅原文太像からの考察)、人間存在の本質と創造とは何かを最大限に「ちきゅう座」によっても討議する学習会の拡大を担わなくてはならないわけですし、それを目標として努力していると言うわけではないでしょうか?

 

では、具体的に、現在の「ちきゅう座」的学習会は、何をめざしているのかを考察しながらいかねばなりません。

 

福島瑞穂さんの「女性のためのピケティ学習会」

http://mizuhofukushima.blog83.fc2.com/blog-entry-2704.html

 

2014年9月13日世界資本主義フォーラムにて報告 モンドラゴン協同組合企業グループをどう見るか

https://chikyuza.net/archives/47336

 

社会主義理論学会 第68回研究会(報告者:鎌倉孝夫・岩田昌征)

https://chikyuza.net/archives/49874

 

2月14日世界資本主義フォーラム・遠藤公嗣氏「日本の社会システム これまでとこれから」のご案内

https://chikyuza.net/archives/50576

 

2/28現代史研究会(「ナショナリズムについて考える」)

https://chikyuza.net/archives/50149

 

国家としての社会主義ではなく株式会社としての技術者労働者的自立企業グループは如何にして可能であるのか?

どのようにして、落ちこぼれなくそれぞれの人の特性や可能性を生かす社会は可能かの問題設定的展開としても、「金融資本主義」批判としての「実経済商品」の保全としての21世紀的展開としても更に、断片的ではなく、「ちきゅう座」外部にも伝達していかねばならないのですが、インターネットの活用も不十分な様にも感じています。

 

5月には、なんとか東京に戻る予定ですが、連続して、出席できないのが残念です。

首都圏にしかちきゅう座学習会がなく、広がっていないのもやはり残念です。

 

《6》マルクスの時代から現代の技術革新についての現状

 

新解マルクスの言葉 浅尾大輔 2013年9月初版

 

まえがきから

 

「もちろんマルクスと私たちが生きる時代には大きな違いがあります。

当時は電話の原理が発見された頃でインターネットもラジオもありません。

自動車の代わりに辻馬車です。

原動機は、同じ蒸気を利用しながらも原子力ではなく石炭による火力でした。

 

世界中の政治は、国王や貴族、教会の絶大な力のもとにありました。

新聞記者といえども自由な報道は禁止され、テレビ中継もありませんから国民にとっては「密室政治」そのものでした。

ですから、もめごとが起こればピストルによる決闘!という時代の風潮もわかる気がします。

 

このような窮屈な社会を威勢よく壊して登場したのが「ブルジョワジー」こと資本家です。

当時は製糸業や製鉄業、レンガや陶器などを大量生産する工場経営者たち。

彼らは、初めこそ政治よりも事業にいそしみますが、植民地の支配という世界市場への依存を強めるなか、いよいよ外国との競争が熾烈になると国家の後ろ盾を求めて政治に介入するようになるのです。

 

一方、資本家と共に存在感を示したのが、社会の圧倒的多数を占める労働者たちでした。

彼らは大人から子どもまで一日一二時間も働きましたが、パンとバター、紅茶しか買えないほど貧しく、マルクスが暮らしたロンドンの通りにはホームレスや狂人、病者、売春婦たちであふれていました。

 

ふだん私たちには、マルクスの時代のような凄まじい貧困について深刻に考える機会はないかもしれません。

しかし現代の日本でも大企業の莫大な役員報酬や脱税・資金洗浄が報じられる一方で、生活困窮による痛ましい飢餓事件のニュースも後を絶たず、さらには生活保護世帯の増加や過労死・就活自殺・「ブラック企業」といった新たな社会問題も暗い影を落としています。」

 

マルクスの時代の粗描は、漫画の『カムイ伝』や大河ドラマ的、更に、バルザックの文学にも伺えるものであって、目新しく見聞きする気はしないのですが、しかし、現在のイスラム国問題やイスラム教問題の広がりから貧しいものは、バイブルを持つ。

多くの本を回覧して読むのが人の一生にとって幸福なことでもなく、それが、核心に迫れない教科書やテキスト、教条書と言い換えてよいと思うのですが、「真に学ぶことを妨害している」日本の現状と「教育商品」の在り方を批判的に対抗していく事から「ちきゅう座」学習会を独立させていかなくてはなりません。

 

それに必要なもの、真に現代に生きる、資本主義研究として必要な人間学としての体系化は、如何にしてなされるのかが問われ続けているわけです。

政党政治は、日本では、崩壊していて、官僚と自民党に独裁されている現状があります。

大学の政経学部が何ら、機能を果たしていない、そして、アメリカの支配を受けていて日本の民主主義が独立して機能していない故の沖縄基地問題があると言う事をメディアも隠蔽し続けている事に対抗しなくてはならない事を強く訴えなくてはならないはずなのに、

何故、誰もかれも「ちきゅう座」でも、自信なさげに、断片的な知識、教養的傍観者的な書き込みで満足しているのでしょうか?

今こそ、政治的危機、民主主義の危機であるにも関わらず、その危機を伝え切れていないのは何故なのでしょうか?

 

メディアの独占と「体制的教育商品」「教科書=教条書」を捨て、抵抗する真の抵抗政党としての労働者党を政党を越えて、建国する独立、独立戦争を内部で起こして然るべきですが、何故、論理が伝わらず、「喪われた20年」が生じてしまったのか?

無教育孤児が、排出され、少子化、この国に、若者が絶望していっているのかを問わねばなりません。

 

時間がないので、今回もこの辺で。

 

では、新解マルクスの言葉 浅尾大輔 2013年9月初版の内容に即して、コメントしていきたかったのですが、それも出来よう時間が持てませんでした。

0円商品から「商品の命がけの飛躍」としての資本主義論へは、次回以降の課題としていこうと思っています。

何処からでも語れる。

しかし、真に必要な知恵は、貧しいものは、バイブルから、そして、それを逸脱した、哲理と資本主義分析としての新「資本論」体系としての刷新をピケティブームの延長として、最大限に語っていかねばならない時です。

 

 

Ⅰ すべてを疑え 批判的精神

 

Ⅱ 商品の命がけの飛躍 価値の本質

 

Ⅲ プロレタリア諸君、団結せよ 資本家対労働者

 

Ⅳ 大洪水よ、我が亡きあとに来たれ! 資本主義の正体

 

Ⅴ このひき蛙どもを見ろ! 階級闘争のイデア

 

 

2015年何をすべきか。

実践論として。

 

そして、出版物として、『ちきゅう座読本』は、如何にして、可能であるのかを討論すべきではないでしょうか?

インターネットとして、内側の人々、「たんぽぽ舎」「テント日誌」などなどだけではなく、全ての日本人へ、そして、世界の資本主義研究家を通して、ちきゅうに生きる同時代人全てへ語るべき「世界革命」の礎を語るべきなのです。

 

2018年までの3か年計画の実践こそを念頭に置き、走らなくてはならない時であると思います。

人の一生は短いのです。百年生き延びたとしてもそれだけの事でしかありません。

 

マルクス生誕200年祭のちきゅう規模での開催を!

http://revolutio.exblog.jp/21180172/