たまには気分を楽にしたほうがいい──周回遅れの読書報告(その78)

著者: 脇野町善造 わきのまちぜんぞう : ちきゅう座会員
タグ:

 調べものがあって、古いノートを見直していたら、長田弘の詩集『深呼吸の必要』を読んだ際の20年も前のメモが出てきた。本来詩心もないくせに、詩(人)について語るというのもあまり感心した話ではないが、古い記録を残すというのもこのこの報告にはふさわしいと考えて、書き写すことにする。

この世に希望を持つためには、世界は好ましいと考えるひつようはないのだ。世界がそうなることもありえないわけではないと信じられれば、それで足りるとしようではないか。
                            ジョーゼフ・コンラッド

 この文章は、長田弘が詩集『深呼吸の必要』の中の「ピーターソン夫人」という詩のなかに引いたものである。私は長田の詩が好きである。しかしそのどこが私は好きなのか、自分でよく判らなかった。しかし、今はほんの少しだけ判った気がする。長田がこういう堪らなく心に残る文章を(一体、どこでどうやって見つけてきたのか見当もつかないが)、さりげなく自分の文章の中にちりばめるという特異な能力を持っているからだ。
それにしてもなんという文章であろうか。こういう文章をちりばめながら、長田は、子供が大人になる微妙な時期とそこでの心の動きを、散文のような短い詩でもって綴っている。名文である。間違いなく、長田は詩人である。こうした文章を書ける長田にある種の羨望を覚えると共に、こういう詩を味わわせくれた長田に感謝したい。
 心が何となく穏やかになり、そしてその穏やかさが自分の全体を包んでいくような気分になり、若い女子職員に頼んで缶ビールを用意して貰い、それを飲みながらこのノートを書いている。以前にこういう気分になったことがあるのか、ほとんど記憶にない。あるいは初めてこんな気分になったのかもしれない。
 「ひょっとして好くなることもないではない」――そう考えて満足する。
 そう考えれば、たしかに希望は持てるのである。
 現実の世界を考えると、暗澹たる気分にならざるを得ないのだが、それで、なお生きてる。
 気分を楽に持とうではないか。
 長田は同じ詩集の「贈り物」という詩のなかで、こうも言っている。

大事なのは、自分が何者かではなく、何者でないかだ。急がないこと。手を使って仕事をすること。そして日々の楽しみを、一本の自分の木と共にすること。

 「急がないこと。手を使って仕事をすること。そして日々の楽しみを、一本の自分の木と共にすること」。ひどく心の安らぐ言葉である。私もそうしようと思う。出来ることから少しずつ、ゆっくりと、たまには庭の木でも見ながら……である。
 そしてまた「ひょっとして好くなることもないではない」と思いたい。

 20年前の3月に私はこう書いた。だがその後の人生の下り坂の20年を「ひょっとして好くなることもないではない」という気分で暮らしたとは到底言えない。そして長田自身も世を去ってしまったが、せめて、今からでも「ひょっとして好くなることもないではない」と考えて暮らしたい。
                      長田弘『深呼吸の必要』(晶文社、1984年)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/ 
〔opinion8098:181021〕