ていこう原理③ 「先生に批判、疑問はタブー」

◆忘れられぬ女子学生な切実な発言
 「短大に入って、出席したどの授業でも先生が、授業で話したことを批判しなさい、疑問を出しなさい、とおっしゃいます。でも、できるわけがありません。高校を卒業するまでの十二年間、先生を批判したり疑問を言ったりするなんて、してはならないタブーでした。」
 非常勤講師として大学で授業をしていた時の、女子学生の、切羽詰まったような切実な訴えを、今も忘れられません。
 私も新年度の最初の授業で、「この授業で私が話すことは、私の見解、意見にすぎない。違う意見があるかもしれないし、間違っているかもしれない。だから、丸暗記しても意味はないから、アレ?と思ったら疑問や批判を出して欲しい。すばらしい批判をした人には、〈優〉を約束します」と、必ず言っていました。
 編集論の授業でしたので、疑問を持って問うこと、批判的視点を持って考え判断することは、大切な基本でもあるからです。

◆批判力も受け止める力も弱い?教員
 この女子学生の発言は、私自身の体験からも、よく解かると思えました。学校で教員たちは、子どもたちが「学ぶべき」知識(正解)などを独占・支配し、与え施し、受容度を判定することで、子どもたちの学びを従属させているという、根本的な認識があったからです。(学校・教員・教育に関する個人体験は、いずれ書くつもりです。)
 このような教員たちは全般的に、批判力が乏しいように思います。与えられた教科書を批判的に検討し自主的な教材化をしている教員がどれほどいるでしょうか。批判力、批判精神の乏しい教員はまた、子どもから出される批判的発言や疑問への対応力にも欠けていると言えそうです。だから、受け流したり無視したり、時には切り捨てたりも、少なくないという気がします。
 こうした状態に抗する実践をした多くの教員もいました。郷土教育の先達教師の顔も浮かびます。子どもたちも「学問をしている」と主体性を尊重したり、子どもが発見して持ち込んだ課題を大事にしたり、子どもの「NO」を大切にした教師など……。
 今、子どもの権利・人権を尊重し、保護や養育・教育の対象・客体ではなく主体的な存在、一個の人間としての子ども観が当然になりつつあります。前述のような「抵抗の教育」も当然のはずですが、学校教育の現状を見ていると「当然」とは、まるで言えそうもありません。

◆学びに必須の「疑問力」と「批判力」

 ええーッ! あれ~ おや~? といった何気ない言葉が脳裏をよぎった時は、注意力を集中したいものです。子どもたちがよく使う、なぜ? どうして~?も同じです。これらは、編集や取材を行う折にも、「問い掛け」のきっかけ言葉として大切だと、私は考えます。でも、それだけではなく、「問うて学ぶ」行為としての《学問》にとっても重要な批判力、疑問力を示す言葉です。
 「特別の教科」とされる道徳科で学習指導要領が挙げる「項目」には、協調性や公共しんなどはあっても、批判や疑問や、もちろん「抵抗」などはありません。この道徳が教育の根幹に位置付けられているのです。
この構造は、教育勅語体制と共通です。
 批判精神の脆弱な教員は、子どもを再び「国家の消耗材」にする役割を担うことになりかねません。国家・権力、教育体制、そして自己を批判できる精神を!

初出:「郷土教育752号」2022年3月号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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