ていこう原理23〈受ける教育〉を否定する認識変革を

◆憲法26条は本当に権利保障か?
 「ていこう原理」という古びたタイトルでの原稿ですが、じつは「ていこう」したいのは個人的には「教育・教育されること」に対してです。ですから、憲法26条の「教育を受ける権利」には強い違和感、抵抗感を抱かずにはいられません。「受ける」という受動態を権利と言うのは、相応しいとは思えないのです。
 戦前に、兵役、納税と共に国民の三大義務とされた教育。国が施す教育を受け取る義務でした。それへの反省を踏まえて「権利」に変えたのでしょうが、「教育は受けるもの」という教育認識・教育観は、徹底的な批判的検討は為されなかったのだと思います。戦前にも、教育勅語的教育だけでなく、大正自由教育のような取り組みもあったわけですし。
 「受ける権利」とは直截的に言えば、受けさせる相手に差配される、権利というより義務と言ったほうがいいような気がします。例えば福祉も「受ける権利」ではなく、《生存権としての要求する権 利》と捉えるべきであるように、教育というよりも「学ぶ機会や場(環境)」などを《生存権として要求する権利》と捉えるなら、条文は不十分すぎます。
◆「まず教育あり」ではなく、まず学び
 不祥事を起こした企業や機関が、しばしばお詫びとともに「教育を徹底いたします」と述べます。ここでいう教育は、つまり指導、教示、訓練などと同義だと言えます。技能、技術などの継承、伝授の教育は、これでもいいのだと言えるでしょう。しかし、いわゆる一般教育(学校で行われる教育)も、同様にとらえられていいとは、とうてい思えません。
 指導、教示、訓練などとしての教育は、《生存権として要求される》のには、まったく相応しくありません。なぜなら、これらの教育は、まず教育があって、つまり教えるべき内容・事項があり教える者がいて、教わる=教育を受けることになります。
 国家・権力にとって、まさに都合の良い教育です。戦前の教育は、教育勅語が明示するように、優れた臣民(国民》になるように、国家が定めた内容と制度の教育を受ける義務があり、軍事的な訓練まで受けさせられたのです。
 まず教育があって、という構造は、じつは戦後教育でも、基本的に変わらなかったと思います。戦後しばらくは、学習指導要領が「試案」とされるなど一時的に緩んだものの、国家の教育支配・統制は復活・強化され、今や道徳の項目も含め、学習指導要領は、内容はもちろん教え方にまで口出しする、「国家による教育」の体制ができ上がっているのです。
◆EDUCATION 学びを支え励ます行為
 学びと教えの関係性については、稿を改めて 述べるつもりですが、教育、教育する側にイニシアティブのある考え方は変革すべきです。教えの前に問い・学びがあり、教えに相応しいい存在を探し求める意気があることも大事です。
 education の語源や意味には諸説あるようですが、教育勅語型の教育が翻訳語にあてられたのは、残念な気がします。それは、国家の根幹を支える教育であり「教え―学ばせる」制度の教育だと考えるからです。学びを支援し励ましエンパワーするはたらき・行為を表わす適切な語があればいいのですが。援学、支学・励学・育学…どれもダメ‼辞書にも無し。まず〈教育〉の実態や意味や内実の変革の追及をたゆまず、です。(読者)

初出:「郷土教育772号」2023年11月号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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