◆提出文「私は死ねばいい」に花マル
子どもの自死の報道に接するとわたしは、思わず心の中で「バカヤロー。なんで死んだんだ!」と、つい叫んでしまいます。悔しく無念の強い思いからです。
いじめに苦しんでいた奈良市の小学四年生の子が、「わたしは死ねばいいのに」「死ねばいいな、自分なんて、いなければよかった」などと書いたノートを提出、担任の教員が花マルをつけて、「You can do it」「ファイト‼」と書いて返した、という記事を読みました(2023・2・7各紙など)。担任は、この子の悩みを聞き、励ますつもりで書いた、と説明しているそうです。
辛くてしんどいのに、その思いを書くという行為で伝えた、本当の意味で⦅がんばった⦆ね、すごいな、死なないでいてくれてありがとう!
わたしは心の中で思わず叫んでいました。厳しく重い「ファイト=がんばり」がなければ書けるはずのない、「自殺をほのめかした」とも受け取られることが 書かれているのです。この子は、「しんどい思いを伝えたくて書いた」と言っているそうです(朝日、12・12付)。いじめや指導禍などで辛くしんどい思いを抱える子たちには、ぜひ、手本にして、生きぬいてほしいと願います。
◆花マル、どこがなぜ、悪かったのか
この担任の対応は、あまりにも軽薄でひどいと言わざるを得ません。新聞記事の扱いにも、花マルをつけたこと自体への非難を感じます。
でも、問題なのは、花マルをつけたことというよりも、重いメッセージの受けとめ方と「励まし」の意味(方向)にあると感じます。極めて辛くしんどい気持ちを書いて伝えてくれたことへの《うれしい気持ちの花マル》とは、なっていないのです。つまり、「ありがとう」の気持ちが欠落している、ということです。
一部には、子どもの側から花マルを求めた、との記事もありました。これは担任の思い込みか何かだったようですが、このことは書いた子の心がどれほどの深刻さを抱えていたかを示している、と理解すべきでしょう。英文の添え書きの意味を知った時に、「嫌な思いをした」と言ったとのこと(朝日同)。新聞は「あ なたならできる」などと訳をつけていますが、「it」に何の語を充てるか…と考えると、怖くはなりませんか?
◆教え答えるから《受けとめ応える》へ
この「担任が花マル」の記事で感じたことは、子どもからの問いかけや意見、メッセージに、ありがとうと応える教員に、多く出会ってきた記憶があるからです。そこには、対等な人間の間のコミュニケーションが、特別の意識なしにあったような気がします。教え導く指導としての「教え・答える」ではなく、いわば「受けとめ・応える」という姿勢での子どもとの関係です。
学級の子が担任教師に、自分の気持ちや意見を伝えてくれるということは、今の学校では、ふつうにあることとは思えません。子どもが教員にものを言うなど、タブーに近いとも言えます。子どもの意見を聞いてもらえる社会でもないのです。
せっかく、苦しく辛い心の内を、思い切って書いてくれたのです。しっかりと受けとめ応えていれば、どれほど事態は改善していたことでしょうか。どれほど、学校が救われていたことでしょうか。
改めて言います。死なないでありがとう。(読者)
初出:「郷土教育775号」2024年2月号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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