◆徳目に必要? 権力・権威のお墨付き
世界に平和と非核化のメッセージを送り続ける広島市の市長による教育勅語の徳目の肯定的な引用。戦前の天皇の国家、天皇の軍隊の精神的な基本の柱だった教育勅語が、なぜ……と、その不釣り合いに驚きます。
報道によると広島市長は、勅語が並べる孝や和や博愛などの徳目を「先輩が作り上げた良いもの」と受け止め受け継ごうと、市の職員研修資料の「生きていく上での心の持ち方」の項で引用しているのです。まさに戦前に、国民の「生きていく上での心の持ち方」を縛り付け、戦時体制に猛進させた基本柱の一つが、教育勅語だったはずなのです。
勅語に並ぶ徳目の多くは、ふつうの世の中で語られる、皆がうなづく徳目と違いはありません。でも、まさにでも、勅語の徳目は、天皇の祖先が「樹(た)てた」もので、それを下し与えたのだから、天皇の国家そして軍隊のためにそれを身に着け守り、緊急事態になったらお役に立つように、と続くのです。
なぜ、そういう教育勅語で、ふつうの徳を語らねばならないのか。「私の」信念、「生き方の心」として語らずに、なにゆえに教育勅語という権力、権威に依存するのか? 自身の自立・自律性、自治性、自主・主体性に、そして自己肯定感に、自信が持てないのか、いや、ないのかなと、思わずにはいられません。
◆憲法無視の「国の在り方」の戦前化
戦前の天皇の国家、天皇の軍隊の精神的な基本柱のもう一つが、靖国神社(そして靖国魂)だと言えます。その「復活ぶり」も、最近、際立ってきています。幹部を含む自衛隊員たちが集団参拝し、元将官が神社の代表の宮司に就任しています。なにやら〈自衛隊神社〉になりつつあるかのような、イヤな感じです。
天皇=国家のために命を失ったとされる人たちを「神」として祀って拝む「忠魂社」。戦前には、天皇の軍の精神的な太い柱として、兵士を戦闘に駆り立て、国民を動員するために大きな役割を果たしました。庶民を大虐殺した東京大空襲でも焼けずに残り、今では東条英機などのA級戦犯らも合祀されています。
〈憲法9条の下の自衛隊〉というのが発足時の精神だったはずでした。弾を撃たないことが、その精神を示していたと思います。その9条の下からはみ出し続け、集団自衛権も認められると内閣が勝手に決めたり、事実上の空母を持ったり……。自衛隊の国軍化の動きです。そして多数の現職自衛官が集団で靖国神社へ参拝。「私的」と言ってみても、集団的な意図は否定できません。
◆憲法前文の熟読&元の教基法の回復を
戦前のボーレイというべき教育勅語や忠魂社・靖国魂の跋扈は、戦前回帰のノロシのようです。キツネ憑きのキツネのように、教育勅語や忠魂社・靖国魂が憑き物になって、信奉者を動かしているように感じられます。
こうした憑依の状態から抜け出すには、冷静に事実と向き合い、思考を正常化することが大事ではないでしょうか。そのために、憲法の前文と第97条をしっかりと読み込むことと、改悪前の教育基本法を読み返し回復することを、強く推したいと思います。
素人考えですが、前文と97条は、憲法の中で最も完成度の高いもので、読み込むと憲法の精神が染み渡ってくるように感じられます。その精神が、憑き物を払ってくれると信じたいです。(読者)
初出:「郷土教育776号」2024年3月号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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