◆プーチン・アベ・トランプ……
《暴力による襲撃は、民主主義への攻撃でもあり許されないが、その暴力で襲撃された政治家は、民主主義を後退させ忖度を広げた、専制主義の推進者だった。》――安倍晋三元首相の銃撃事件の直後に、こんなメモを走り書きしたのでした。「権力という暴力」と云うことをプーチン・アベ・トランプの名とともに思い浮かべました。
専制・独裁政治家は、握りしめた権力を、暴力さらに凶器へと変えていくことが少なくありません。例えばプーチンは、人殺しを権力の行使・維持の手段、戦術と思い込んでいるフシがあります。
一方、戦後政治を担った自民党の指導者たちの中には、権力の自制に努めた人も少なくないと思います。民主主義の政治家としての「正常」な態度でしょう。しかしアベ元首相は、百回を超える虚偽答弁で、議論の府としての国会とそこでの議論を軽視し、モリ・カケ・サクラで行政文書の改ざんなどを引き起こし、官僚人事で官僚の思想信条、言論表現の自由を封殺し・・・つまり、民主主義を傷つけ後退させ、思想信条、言論表現の自由を封殺・抑圧してきた張本人だと、私は思います。
◆「権力という暴力」は許さない民主主義
アベ元首相は、プーチン、トランプとともに「消えてほしい」政治家の一人でした。ただし「政治生命」として、です。大学時代の友人で有望な政治家だった石井紘基氏の刺殺で衝撃を受けた経験があるので、なおさらです。
生命を喪ったことに関しては、SNSで「生きて道徳的法的な責任を取ってもらわねばなりません。全てを闇に置いて地獄に行ってもらうわけにはいきません」という声がありました。死者を美化して片付けてもらっては困るのです。
民主主義は、主権在民と三権分立と思想信条・言論表現の自由によって、権力をコントロールする制度であり、権力の乱用、ましてや「権力という暴力」を許さない制度なのだと思います。
だから、「権力が暴力になる」ことを、決して忘れてはならないはずです。光州事件や天安門事件は権力の乱用による暴力の実例、戦争は当然にその典型です。戦争に反対し平和を守る、と云うことの根底にも権力の抑制があるはずです。
◆教育の国家支配・統治の道具化NO!
私にとって許しがたいのは、アベ政権による教育の民主主義の破壊です。アベ政権の文科相には、執務室に教育勅語を張り出したという時代錯誤のトンチンカンモいました。
教育基本法の大改悪をはじめ愛国心を含む道徳教育の教科化と、道徳教育を学校教育の根本に据えたこと、教科書への政府見解の記述の強要などの政治介入・干渉(いわば国定化)。教員免許更新制の廃止による教員研修の義務化と教員管理の強化……等々、まとめて言えば(学校)教育の国民統治の道具化です。つまり国家のための教育の制度としての学校、戦前の「国民学校」の復活です。
(学校)教育の民主主義の破壊は、社会の民主主義の破壊です。戦争が「教室から始まる」ように、民主主義も教室から始まると考えたいです。
銃撃事件翌日の新聞各社の社説は、民主主義、言論の破壊は許さないでした。でも読売は「安倍元首相死去、国家的な損失をどう回復する」でした! 教育破壊の損失こそ問いたいです。 (読者)
初出:「郷土教育758号」2022年8月号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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