ていこう原理 34 文化と文明の違い?教育は文明の支えか

◆文明の最先端としての戦争
 科学技術の粋を総動員したような戦争のニュースが、日々、流れています。まさに文明の最先端。文化とは無縁の、いわば文明開化の成れの果てのアジア太平洋戦争だった、と言ってみたくなります。戦争が生み出す文化もありますが。
 文化と文明の違いを考えていて、「文明は『便利』のつぎはぎ」という新聞の見出しを見つけました(毎日新聞2024・8・4、時代の風、長谷川眞理子)。つまり合理化、効率化、高速化、機械化などを、科学技術の力で実現してきたのが文明。人類発生から600万年の内の農耕開始からの1万年、しかも産業革命からわずか200年、「人新世」という地球環境支配をもたらしているのです。
 なるほど、だとすると、不便や無駄や無用のものたち、手間やヒマ、雑多や無意味、はみ出しや半端、そして混沌などをも大切にし活かしてきたのが〈文化〉と言ってもよさそうです。戦争は、やたら膨大な無駄の山をつくり出しますが、都市文明がつくり出すゴミの山と同質だという気がします。
◆教育は文明の先導役でいいのか
 明治維新改革は、欧米に追い付き追い越せの近代化政策の下で、文明開化、富国強兵、殖産興業を進め、そのために教育勅語による学校教育が大きな役割を果たしたのでした。話は飛びますが、敗戦直前に,特攻兵に青少年を駆り出した中心にも、学校教員がいたのでした。
 教育文化という言葉がありますが、さて、文化たり得ているでしょうか。文明国家、文明国民づくりの基盤になっているのではありませんか。少なくとも戦前の学校教育は、文明国家建設の担い手であり、国家のために尽くす国民づくりの国家組織でした。戦後も、科学技術立国の担い手の育成を期待されていました。
 集団活動、一斉授業、テスト主義、丸坊主などの校則による規制など、雑多やはみ出し、自分勝手は許さず、秩序を守らせます。これらは、文明路線ですよね。多様性、自己選択、インクルージョン、個別学習などは、教育の文化路線化と言ってもいいような気がします。  
◆人権、反戦平和、学び、子どもの権利
 子どもの権利・人権についての、とても優れた講演や著作に接していて、ふと感じる違和感があります。それは、説明のすべてが、ルソーやペスタロッチそしてカントなどの名とともに、西洋の啓蒙思想、人類概念などを信頼し、依拠していている、ということへの疑念です。
 これに関し、『アフリカ哲学史』(河野哲也著、ちくま新書)の書評(辻原昇・評、毎日新聞2024・8・17)では、次のように述べています。
 「啓蒙主義と植民地主義は楯の両面、西洋の欲望と暴虐を支えたのが〈啓蒙主義〉というイデオロギーであった」「西洋の『模造装置』たる日本」…。そしてカントもジョン・ロックも、アフリカへの差別を述べていたと。文明開化のお手本だった西欧文明の、アフリカへの支配、侵略と略奪の実像です。
 ルソーが『エミール』を書いたころの西欧では、子どもは人間扱いされていなかったとも言われ(それゆえに革命的な子ども観の提出だった)、明治維新前後の訪日外国人が〈子どもを子宝として大切にする日本〉に驚いていることも連想されます。多分、生命への畏敬の文化があったのです。子どもの権利、人権、学び、反戦・平和…手間ひまかけて、文化として培いたいと願います。(読者)

初出:「郷土教育781号」2024年8月号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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