◆国民が憲法を〈まもる〉意味
2025年は戦後80年。昭和100年とも云いますが、前半20年と一括りにされてたまるか!です。明治と昭和の百年は政府が祝った(う)ようですが、2011年の大正百年は無視でした。大正ロマン、大賞デモクラシー、女性運動や労働運動、大衆運動など、わずか十五年ながら大事なことも多いのに、です。
大正時代には、二度の〈護憲〉運動がありました。一応は立憲主義をうたい国会を定めた明治憲法と政党の尊重などを求めた民衆的な運動で、普通選挙の実現(男性のみでしたが)にも取り組みました。この護憲運動では、「護」は単に「マモル」だけでなく「たすける・大切にする」そして「マモラセル」の意味もあり、議会・選挙、政党政治、民主主義を進化させようという意識があったように感じられます。
ところで戦後の護憲運動は、「マモル」を超える運動たり得たかと、ふと考えさせられます。「まもる」には、守・護・衛・遵・鎮の5文字があり、衛はフセグ・ミハル、遵はシタガウの意味もあります。
「守憲」でない「護憲」ですが、マモルのに追われたような気もしてしまいます。
◆現憲法に感じるいくつかの問題
このように短いが〈ゆたか〉な大正時代は、治安維持法や軍部の政治支配などとともに「昭和へと暗転」し、戦前の20年です。それを終わらせたのが、新憲法の制定でした。だから、それ以後の80年は、いわば〈シン昭和〉なのです。
現憲法で、前文と97条には読み応えを覚えます。しかし論議が尽くされなかったと思える条文も少なくありません。例えば、第1章第1条がその筆頭です。主権在民のもとの象徴天皇なのに、天皇についての条文の中の主権という逆立ち状です。26条の教育を受ける権利は、「学習要求を充足するための教育を自己に〈施す〉ことを要求する権利」(最高裁学テ判決)止まり、施される権利なのです。生存権としての自己形成のための学びの権利には、なっていないのです。
内閣の条文では、「大臣」が規定されています。一体「誰の臣」なのか? 国会でもテレビでも専ら「ソーリソーリ」、かろうじて新聞は首相ですが。閣僚も○○相でなく○○大臣です。憲法に定めのある「大臣」を使わないのも「護憲」ではないでしょうか。ついでに言えば、石破首相は第102代とされますが、片山哲以来の46代が正しいのでは?
最高裁の裁判官は、内閣の任命ですが、国会の関与はありません。違憲審査権についても、積極的な規定はありません。違憲の優生保護法が、長期間も放置されたことが想起されます。地方自治の95条は、「一の地方公共団体のみに適用される特別法」だけですが、「特定の地域にかかわる行政権の行使」が抜けていると考えます。沖縄が思い浮かびます。
◆現憲法維持だけの「護憲」を超えて
第97条は国民(ピープル)に、基本的人権を「護る」よう、積極的に活かし高めていくよう、求めています。99条が、天皇、首相らに求める「尊重し擁護する義務」は、「遵(まも)れ」つまり従えという要求であり、国民がこの規定を「護る」とは、大切にして従わせる、ということです。
当然ですが、国民は憲法を「遵る」べき存在ではありませんが、「護る」主体だというべきだと思います。大正時代の護憲運動はたとえ欽定の憲法でも、その中身を進化、形成するのはピープルだ、と示しているように思えます。(読者)
初出:「郷土教育788号」2025年3月最終号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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