◆教育って本来は〈求める〉もの‼
【憲法26条は「教育を受ける権利」を保障しています。権利には、惨禍をもたらした戦前の教育の「義務」を否定した意味があります。でも、教育は「受ける」ものと、相変わらずに思わされています。だから、 「受ける」教育を与える(授ける、施す)立場が存在します。その筆頭が国家です。憲法と一体とされた教育基本法の大改悪で、国家はその権力を回復しました。だけど教育は、決して「受ける」ものではなく、学ぶ人が自らの必要(問い)に依って「求める」ものです!道元さんの求法の旅のように。 Right to receive education が、子どもの権利条約ではRight to education になっています。憲法26条も、これに合わせたい!ものです。《教育を要求する》権利へ】
最近、こんな小文を書きました。憲法球場が「死んだ」などと言われてますが、それ以上に空洞化、死文化されているのが、 26条は条文そのものが不完全なので、よりひどい状況にあるという気がします。かつて、条文通り「受け取る」権利だ、と述べた高裁判決があったように思います。
◆条文の不十分さを補った教育基本法
明治憲法で定められた兵役と納税の義務とともに、教育を受けることはは国家に対する臣民⁽ 国民⁾ の義務でした。戦後も義務教育とされますが、それは教育を「受ける」義務ではなく、子どもの学習の権利を保障するために「教育を受けさせる」義務で、ただし無償とされています。これは、いわば条文の解釈です。そして、その受けさせる教育の内容や方法、制度などの国家権力、政治権力からの自由は、まったく保障されていません。義務が権利に替えられたものの、戦前と同様に国家が臣民に与え施す教育が残る恐れは残ったのだといえます。つまり、権利としてではあれ、「受ける」教育をつくり行うのは誰か、です。
この心配を防いだのが、1947年に制定された教育基本法だったと思われます。教育の目的を明示するとともに、第十条₍ 教育行政₎ で、不当な支配に服することなく国民全体に対して責任を負い、教育の目的を実現するための諸条件の整 備確立を目標とすると定めました。教育行政への、政治・国家権力の介入・干渉を制止したのです。
◆学校教育の管理は国家の統制支配に
改悪前の教育基本法が憲法と一体、教育の憲法と言われたのは、こうした経緯からでしょう。ですから、その大改悪は憲法改悪だったというべきです。いくつもの「態度」を養うことを定めた教育の目標₍ 第2条₎ は違憲というべきです。
国際的動きの中で、主体的、対話的、個に応じた学習などと「修飾」が施されているものの、道徳教育を根幹に据えた教育、内容から教育方法にまで提示する学習指導要領、政府の見解を書かされる教科書検定、そして発言の自由を奪われた職員会議などなど、国家・文部行政による統制・支配が浸透。学校教育の管理の自治も弱体化、文科省というより文部省の意向を注視、になってきています。
学校は今、国家・社会が必要とする知識・技術・態度を「受けさせる」教育の場となってきています。国家・社会が必要とする国民₍ 公民₎ になれ、と。でも、 receive を外したRight to education を創れるのも自治体だと考えます。まずは、一貫した憲法学習からでも!(読者)
初出:「郷土教育766号」2023年6月号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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