◆生活科に不要・無用の教科書とは!
小学校で2024年度から使用する教科書の採択が、この夏に行われました。問題の多い歴史・公民などのある中学校教科書の採択ではありませんが、注目度も減り、静かな採択という印象です。
採択の教育委員会定例会を傍聴して感じたことですが、「静か」には、手間をかけた採択の作業・審議の意味が薄らいできた、という感じが含まれます。文部科学省の教科書「検定」が、すでに「検閲」化して、政府のつまり政治的な内容が掲載され、表現までも統制されているのですから、採択の判断は編集の工夫や使いやすさなどが主になるのでしょう。採択の
資料をめくりながら、まず思ったのは、低学年の教科、生活科に教科書があるが不要・無用だということ。教科書のない総合学習の低学年版といえる生活科は、子どもたちが身の周りの出来事や物事、自然や現象などから感じたり気づいたりしたこと(問い)から学びを紡いでゆく教科だと思います。教科書はじゃまだ、と言うべきです。
生活科に教科書は要らない、と判断しても、採択しなければいけなのだそうです。もったいないですが、生活科は教科書は使わずに、倉庫に放置という判断があってもいいように思います。
◆〈教科書頼り〉の傾向という警告
総合学習に取り組んだ子たちが、新しい教科書を見ながら、「総合学習の教科書は、私たちが作るんだよね」と言っていたのを思い出します。外国語や道徳も、教科書なしがいい!
採択審議を傍聴していて、教委事務局の次の2つの説明が、強く耳に残りました。教科書頼り(依存)の傾向がみられるという指摘と、社会科、道徳、生活科などの授業づくりの中で子どもたちの「自分事」を大事にという説明です。
教科書頼りの傾向がみられるという指摘は、むしろ「警告」と受け止めるべき重大事と捉えたいです。そして、子どもたちの「自分事」を活かすことで教科書依存にならない取り組みが可能になる、と理解してもいいのかもしれません。
ともかく教科書は今、国家権力認可の内容を民間出版社が編集を工夫して発行している、と理解したほうがいいように思います。だから、教科書依存は国家による教育支配に加担することになると、「警告」したいわけです。
◆教員の意見表明の自由がある学校に
かつて、教科書「を」教えるのではなく、一つの教材として教科書「で」教えよう、と言われました。教員は、自らが学んで(研究して)自主教材を開発し、自主編成した教育課程の構想を持ち、その中で教科書も一つの教材として扱う、という考え方だったと思います。
その実践ためには、教員の研究・意見主張・議論などの自由が保障された学校であることが大事になるはずです。今、子どもの権利として意見表明権がこども基本法にも規定されるようになっています。意見表明権の前提には、情報へのアクセス権もあります。
しかし学校で教員には、意見表明・議論の自由や学ぶ自由(自主研修・研究の自由)などはあるのでしょうか。「ある」とは言い得ないのが現状でしょう。
こうした学校の状態は、教科書依存の傾向の温床なのかもしれません。教科書依存にならないために、教科書「を」、《参考書》として扱う、なんて議論があるとおもしろいのですが。(読者)
初出:「郷土教育771号」2023年10月号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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