◆教基法改悪はまさに改憲の強行だった
憲法と一体、凖憲法と言われた教育基本法(1947年制定)の大改悪が強行されて十七年になります。大改悪の〈主犯・安倍晋三〉への怒りが、今もまざまざとよみがえる十二月です。
この大改悪は、いわば《憲法に対する政治的クーデター》だと言いたいと思います。事実上の改憲。だから「国賊だ」と指摘した発言には納得なのです。
問題にしたい改悪点は多くありますが、《クーデター》にかかわっては、前文が示していた憲法との「つながり」の切り捨てがあります。前文は、憲法の決意と理想の実現を教育に託した、教基法制定の本旨と願いの表現であり、憲法との一体性、凖憲法性を示していました。
大改悪では、憲法と教基法のつながりを否定するとともに、憲法26条の不十分さを補完する教基法の位置づけも排除したのです。つまり、憲法の決意と理想を実現するに適う教育を求める教基法が潰されたのだ、とも言えると思います。
◆個人の尊厳・自己形成権の重大な侵害
47年の教基法第2条は「教育の方針」として、第1条の「教育の目的」の達成のために「学問の自由を尊重し、実生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献する」ことを求めていました。この条文を削除し、異質の「教育の目標」を第2条として突っ込んだ改悪です。社会の形成や発展に寄与する態度とか伝統文化や郷土や国を愛する態度とかを含む5項目の「態度の養成」です。
言うまでもなくこれらの「態度」は、個人の一人一人が、どう自分育て、自己形成をするか、どのような生き方をするか、社会とどうかかわるか、ということと深くつながります。その「態度」について、国家から学校教育を通して指図されるなど、あっていいはずがありません。それを、国の法律で定めているのです。
個人の尊厳の無視、学ぶ権利・自由としての自己形成権の侵害です。「教育を受ける権利」においても、望まない「態度」を「受け取らない」自由があるわけで、養成させられるのは、ごめんです。
さらには、思想信条や表現の自由、信仰の自由への侵害にも及ぶと言わざるを 得ません。まぎれもなく、憲法違反だ!と考えます。
◆国家は教育(内容)から出て行け‼
47年教基法第10条は、次のように定めていました。「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。2教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するために必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」。
つまり、教育の独立と自由です。教育は、国家や政治権力などの介入・干渉を受けず、ピープルと直接に向き合いかかわり責任をもって行われるべきもの、という原則です。だから、国家・政治権力、教育行政は、教育内容や方法などに手を出さず、教育予算を確保し、施設や教育諸条件の保障を本務として取り組め、ということです。教基法大改悪で崩壊させられた原則です。
国立となったイタリアのモンテッソーリ小学校で聞きました。「国立になって増えたのは、予算などの書類だけ。教育内容・方法などには何の干渉もなく私立の時のままで、全く変化はありません」。これが本来の原則です。 (読者)
初出:「郷土教育773号」2023年12月号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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