(2022年2月27日)
姓は澤藤、名は範次郎。私の同年輩の従弟である。沢藤範次郎ではない。「澤藤」か、「沢藤」か。この違いに、こだわるべきか、こだわらざるべきか。もちろん、同姓の私にとってもまったく事情は同じ、他人事ではない。
彼は、岩手県の金ケ崎町六原で、永年「さわはん工房」を経営し、郷土色豊かな創作民芸品を作ってきた。主たる作品は、和紙を素材にしての「張り子」。鬼剣舞の面もあれば、招き猫やら人形やら。その評価は高い。随分以前だが、地域の子どもたちと、縄文土器作りに挑戦したことの話しに感心したことがある。
のみならず、達意の文章の書き手として、先年地元紙「岩手日報」が主宰する《岩手日報・随筆賞》を受賞している。年間たった一人の受賞なのだからたいしたもの。
その文化人である彼が、最近岩手日報社から取材を受けて、こんな経験をしたという。
「岩手日報社から取材を受けました。澤藤の名刺を出しましたら、記事には「沢藤」で出ると言われました。共同通信社加盟の新聞社の決まりだと言うことです」
釈然としなかったが、そのときは「まあ、いいか」と妥協したという。しかし、…。
「その記事が掲載になったのですが、なんだか他人のような気になりました。私は岩手日報社から「岩手日報文学賞・随筆賞」なるものを戴いているのですが、その受賞者名は「澤藤範次郎」です。また、受賞者が交代で日報社の「みちのく随想」に寄稿しているのも、「澤藤範次郎」名です。ところがたまに「ばん茶せん茶」という随筆投稿欄に書くと、「沢藤範次郎」に書き直されることがあります。
そこで注意してみますと、慶弔欄や公告は「澤」を普通に使っているようです。
また、新聞社が依頼した原稿等は「澤」を使うが、一般記事の場合は「沢」のようです。そして、有名人は、例えば「藤澤五月」「澤穂希」のように「澤」を使っています。」
さすがに観察眼が鋭い。明確に使い分けられているらしいのだ。どうやら丁重に扱われる場合と、軽く扱われている場合と。
「書棚にあった『記者ハンドブック 新聞用字用語集』(2005年版)によると、確かに「澤」は無くて、「沢」となっています。そして、このハンドブックの『人名用漢字の字体に関する申し合わせ(2005年)』には、『ただし、特に本人、家族などの強い要望があった場合、前記各項の申し合わせについては各社の運用に任せる』とあります。
私は取材を受けた直後、本社に電話して、できれば「澤」にしてほしいと言ったのですが、どうやら、「強い要望」とは認めていただけなかったようです。」
なるほど、なるほど。そして、問題が私に振られる。
「統一郎さんも『澤』を使用しているようですが、このようなことはありませんか?
人名の漢字も人格権のような気がしますが。」
私は、「人名の漢字も人格権のような気がします」という範次郎見解に賛成なのだが、念のために妻と子に意見を聞いてみた。やや意外な反応だった。
妻は、「澤藤でも沢藤でも、どっちでもいいわ。だいたい私は結婚してサワフジの姓になってもうすぐ60年になるけど、いまだに『澤藤』にも『沢藤』にも慣れない。自分の姓だと馴染めない」と恨みがましい。明らかに論点がずれているが、論争に踏み込むのは危険だ。
弁護士である子は、常々、集団訴訟の名簿づくりで異字体整理の繁雑さに辟易している。ところが、こう言った。「戸籍制度は、権力が人民を統制する手段なのだから、人名は無限に複雑で異字体が氾濫する状態が望ましい。統制が難しくなるよう、各自がそれぞれの字体を主張すべきだ」と、これもやや論点を逸らしての意見。
ところで、過日の朝日「天声人語」に、下記の記事。
「全国の電話帳から拾っただけでワタナベには少なくとも50通りの表記がありました」。そう話すのは名字研究家の高信幸男さん。長く法務省に勤め、戸籍や登記の実務に詳しい。ワタナベの源流は平安中期の武将、渡辺綱にさかのぼり、いまは渡部、渡邊、渡鍋、綿鍋などさまざまな書き方があるそうだ▼サイトウも多彩だ。サイの字は斉、斎、齊、濟などざっと30通り以上。高信さんによれば、ワタナベやサイトウが多様化したのは、明治の初め、新政府が戸籍制度を導入したころらしい▼「列強に追いつくには徴税と徴兵が欠かせない。全国民の台帳作りを急ぐあまり、人名の登録がややずさんでした」。漢字を書けない人が珍しくなく、役所の窓口で姓を問われると、口頭で答える。その場で係官が思いつく漢字を当てたようだ
なるほど、出版の利便性の側面からは、漢字の異字体を規格化し統一化することには、それなりの合理性・必要性を否定しえないように思う。しかし、漢字の表記は文化の一面である。しかも、氏名の表記となれば、人格てきな利益に結びつかざるを得ない。サイトウやワタナベとは違って、サワフジはわずか2種の異字体。
ところで、「氏名を正確に呼称される利益は、不法行為法上の保護を受け得る利益である」とする最高裁判例がある。重要部分を摘記する。
「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であつて、人格権の一内容を構成するものというべきであるから、人は、他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有するものというべきである。しかしながら、氏名を正確に呼称される利益は、氏名を他人に冒用されない権利・利益と異なり、その性質上不法行為法上の利益として必ずしも十分に強固なものとはいえないから、他人に不正確な呼称をされたからといつて、直ちに不法行為が成立するというべきではない。すなわち、当該他人の不正確な呼称をする動機、その不正確な呼称の態様、呼称する者と呼称される者との個人的・社会的な関係などによつて、呼称される者が不正確な呼称によつて受ける不利益の有無・程度には差異があるのが通常であり、しかも、我が国の場合、漢字によつて表記された氏名を正確に呼称することは、漢字の日本語音が複数存在しているため、必ずしも容易ではなく、不正確に呼称することも少なくないことなどを考えると、不正確な呼称が明らかな蔑称である場合はともかくとして、不正確に呼称したすべての行為が違法性のあるものとして不法行為を構成するというべきではなく、むしろ、不正確に呼称した行為であつても、当該個人の明示的な意思に反してことさらに不正確な呼称をしたか、又は害意をもつて不正確な呼称をしたなどの特段の事情がない限り、違法性のない行為として容認される。」(最判1988.2.16)
同じことが、氏名に関する漢字の表記についても言えるだろう。当人が望む限りは、当人の希望を尊重しての表記とするのが妥当な姿勢。が、問題はマナーの問題にとどまり、「沢藤」との表記がことさらに嫌がらせとなって、人格権侵害の違法行為と評価される局面は考えにくい。
鋭い彼の観察眼のとおり、澤藤と沢藤との使い分けは、実は丁重に扱われるか否かなのだ。「沢藤」の表記は違法ではないが、「澤藤」と表記してもらうことがマナーとして望ましい。なんとも平凡だが、そんな結論。おそらく、そんなこだわりは、多くの人にあるのだと思う。面倒だとせずに対応してもらえる社会であって欲しいと思う。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.2.27より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=18647
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11799:220228〕