どうありたいのか?

「気がついたら情報の交差点に」の続きです。
https://chikyuza.net/archives/138247

「オレは何なんだ?このままじゃ、ただのutility playerじゃないか」とジョンソンに愚痴ったことから、二人して「どうありたいのか?」という、あって当たり前、ないはずがないのにという話になっていった。

会社が用意した碑文谷公園の近くの戸建てに日産スカイライン……、日本人従業員の目にはハイソにしか見えなかったジョンソンの生活は、大手欧米企業が派遣した駐在員によくある悲惨なものだった。
七十年代後半から八十年代にかけて、顧客である工作機械やマテハン装置市場を同業の日系メーカに席巻されて、ジョンソンを派遣したモーションコントール事業部はアメリカでもマイナープレーヤーになり果てていた。汎用装置市場では価格競合できないにしても軍需や学術研究装置市場ではと思っていたのだろうが、そんなニッチな市場ですら日本メーカに浸食されていた。アメリカ企業の営業政策ではフィールドサービスもふくめて顧客にぴったり貼りつくような日本企業に対抗できない。ホームグランドのアメリカでも対抗できないものがアメリカのやり方のままで日本市場で?結果は考えるまでもない。
どこの国の企業でも自国の文化の基に成り立っている。ミルウォ―キーに本社をおいてアメリカしか知らない会社が日本支社を開設して十年かそこらで日本のビジネスのありようなどわかるわけがない。仮にわかったところで、アメリカのやり方を捨てて日本のやり方に変われやしない。
事務所には駐在員の諦めともつかない言いぐさがあった。「あいつら(経営陣)は売れない理由を聞く耳はもってない。日本的な営業政策やサービス体制なんか説明したところで、理解する能力もなければ、しようとする、しなければという自覚がない。何を言ったところで、訊いてくるのはアメリカのやり方のままでどうしたら売れるかだけだ。そこで思いきって日本市場に合わせた販売サービス体制を主張したら、正気の沙汰かと疑われてレイオフになるのが目に見えている」

それでも駐在員の生活は保障されている。日立精機でニューヨークに左遷されたが、まったく仕事のできない、お荷物駐在員だった。それでも会社の規定とおり赴任した当月から手取りが二倍以上になった。スーパーの安売りを探して走り回るような給料じゃ仕事にならない。アメリカの大企業で日本駐在員ともなれば、二倍なんてもんじゃなかったろう。
普通のアメリカ人は英語圏以外の国に派遣されても、現地の言葉は日常生活で必要なレベルまでしか習得しないまま帰国する。英語は世界の共通語になっているが、日本語は日本にいるか、日本人相手のときでもなければ使うこともない。都心にいるかぎり、ほぼどこに行っても、相手の日本人が英語で対応してくれる。アメリカ人に限らずどの国から来た人でも、日本語の習得にかかる時間や労力にみあうメリットを見出せない。それはジョンソンをはじめとする駐在員に同じだった。

言語の障壁のせいもあって、日本人従業員と表面的な情報交換はあっても突っ込んだ話にはならない。いきおい日常業務から距離をおいた、お飾りのような存在になってしまう。赴任して落ちついてきたころには、事業部に送る月々のレポートも形だけもものになってしまう。仕事に張りはないがハイソな生活は送れる。その甘い生活に慣れてしまうと帰国する機会を失うことになりかねない。三年、五年と駐在していれば、アメリカの事業部にはいなくても何も困らない存在になってしまう。同期の何人かはすでにマネージャに昇進している。気にはなるが日本にいてはなんともならない。事務所にいて日々の生活で日本人の仕事の仕方や会社組織のありかたを観察することぐらいしかジョンソンにはすることがなかった。薄曇りの日々が続いているなかで、通訳のような立ち位置になったヤツが「オレはなんなんだ?」という疑問ともつかないことをいいだした。それを受けてジョンソンが背筋を伸ばしたようなことを言い返してきた。二人でしょっちゅう似たようなことを言いあっていた。ジョンソンとの話を大まかにまとめれば下記になる。

「お前がいれば、オレがいなくても誰も困らない。オレは事業部に帰ればいいだけだけど、お前はここにいなきゃならない。何か困ったことがあったら、お前に相談すればなんとかなるって、みんな思ってる」
「でだ、最初のそして、本質的なことになるけど、お前はどうしたいんだ」
「そうなんだよな。オレだけじゃないと思うだけど、日本人ってのは与えられた環境のなかでどう生きるかってことしか考えられないんじゃないかと思ってるんだけど、お前の目でみてどうなんだ」
「そこが不思議なところなんだ。オレももう日本にきて五年以上になるし、知っての通り女房は日本人だ」
「どうにも説明がつかないんだけど、俺の目には、日本人には将来こうなりたい、こうしたいっていうものがあるようには見えない。はっきりした目標をもたずに、なんでそんなに真摯に仕事に人生を賭けられるのか?アメリカ人には理解できない。知ってるだろうけど、オレたちは去年防衛産業に買収された。首にぶっといストローさされて血を吸われ続けるってことだ。いままでのように創業家ののんびりした経営じゃなくなる。事業体の売り買いもあるだろうし、あちこちでレイオフも起きるだろう。いくら頑張って業績を上げて、誰にも恥ずかしくない実績を上げても先は分からない。だから、アメリカ人の常識では家族が最優先で、その最優先を経済的に支えるために金が必要で、その金をえるための仕事は家族の次にしかならない。でも日本人はストイックなまでに仕事を優先して、家族はその後だろう。ところが、その仕事ってのも自分がこうありたいっていうところから始まってるわけじゃない。そもそも自分がどうありたいのか自分自身がわかっちゃないだろう。お前のように突き詰めて考えるヤツとは会ったことがない。仕事だけじゃない、ミラーも言ってるけど、お前は内省的(Introspecutive)過ぎるんだよ。いくら考えたって、先は誰にも分からない。多分オレの神さまにもお前の神様にもだ。ただ一つ言える確実なことがある。お前が今は走り回ってやっている事はお前の将来で間違いなく武器になる。専門性ってのか専門職ってのか、お前が気にしているのは?そんなもんより、あっちでもこっちでも使える、武器にできる能力を培えればいいだけじゃないか。それをできる環境にいるんだから、そのまま走り続けろ。考えすぎるな。とんでもなく違う、専門性でカチカチにかたまったところに身を置いたら、それこそあるかもしれない将来の可能性を自分で捨てていくようなことになっちゃうからな」

「勤勉さは、どうありたいという希望(ときには野心ら生まれるものだと思っていたけど、日本人をみていると、どうありたいというものが、少なくともはっきりとあるようには見えないのに、どういうわけか仕事で求められる以上に勤勉な人が多い。なにがその勤勉さを生み出しているのかを考えてきたけど、なかなかこれといった答えがみつからない。自信はないけど、日本人の勤勉さは、村落(職場)共同体の掟にしたがわなきゃならないという同調圧力から生まれてるんじゃないかと思うんだ。同調圧力は個人の自由な発想や意見を抑圧するから、自分はこうありたいということを考えることをよしとしない文化を生み出す。大勢から外れることを極度に恐れる無意識の意識が根柢にあって、そこからどうありたいと思うことなしに、勤勉さが生みだされているような気がしてならないんだけど、お前はどう思う。と聞いても、その文化の基で育ってきた人間にはその文化から距離を置いて、第三者の立場で評価はできないだろうな。オレみたいな部外者、いってみれば外れ者だから見えることかもしれない」

自分でこうありたいと思っても、それを追求できる環境は寄与のもので、ほとんどの人にとって自分の努力でどうにかできるのは限られた一部にすぎない。もって生まれた才なんか努力で補いきれない、与えられたもの以外のなにものでもない。そう考えていくと、得られた環境下で(しか)自分はどうありたいのか、どうあらざるをえないのかまでで、いってみれば成り行き次第のなかでの自分はどうありたいのかということにつきるような気がする。

p.s.
<十一年も駐在してて日本でレイオフされた>
ある日そろそろ昼飯にでかけるかと思っていたら、ジョンソンがちょっといいかと言ってきた。運動不足からだろう、ジョンソンは体重が百キロを超えてしまって、ダイエットだからと昼飯を抜いていた。そのせいもあって一緒に昼飯ということはなかった。ちょっとって何と思っていたら、なにか言いながらエレベータホールに出ていった。なんだと思いながらついて行ったら、ちょっと銀座の方にでもといいながら歩いて行った。どうみても、これといった目的地があるようには見えない。何かおかしい。口数の多いジョンソンが何かを言い出しかねているようだった。もうちょっと行けば、銀座の場外馬券売り場というときになってジョンソンが口を開いた。
「レイオフになった。来月には引き上げる。お前との付き合いもあと二週間かな」
耳を疑った。なんでジョンソンが?という思いが強かった。日本と日本人の仕事の仕方どころか日本の文化にアメリカ人のなかで最も通じているジョンソンがレイオフ?それも日本支社にいて?レイオフにしたって事業部に戻ってから出る話で、出先ではおかしいじゃないか。ムッとしている顔をみたジョンソンが他人事のように状況を説明してくれた。
「この五六年かな、事業部は随分レイオフをしてきたし来年も大きなレイオフになるそうだ。十一年も日本にいて、もう流石に帰国しなきゃってときに、事業部じゃ人減らしでオレが帰ってもポジションがないってことだ。帰って来てもしょうがないから日本でレイオフ、実に合理的で分かりやすいだろう。とりあえず実家に帰ってから事業部に顔はだすけど、もう社員としてじゃない。
直属の上司にもその上にも日本の状況はオレなりにかなり詳しく報告してきた。あいつらにはオレは日本かぶれにしか見えないんだろう。誰も見たいものしか見ようとしないが、誰もが見えるものしか見ないでマーケティングなんかつとまりゃしない。見なければならないものを見ようとすれば、見なければならないものと距離に注意しなきゃならない。遠すぎればよく見えないが、近すぎれば視野が狭くなる。お前は外れた日本人だから、日本の日本に引きずられることはないだろうけど、アメリカに馴染みすぎるなよ。
誰にでも都合があるし、立場ってものもある。したいこと、しなきゃならいことをそのまま出来ないことも多い。ピーボディ―(上級副社長でモーションコントロール事業体グループのトップ)もサドレ(CNC事業部のトップ)も精一杯で、どうにもできないんだ。誰も先のことはわからない。オレのことは心配するな。なんとでもなる」

帰国していくらもしないうちにボストン郊外の日本でもよく知られたスピーカメーカに転職した。そこで日本の自動車メーカ相手にカーオーディオシステムの営業をしていた。数年後に出張で戻ってきたときに久しぶりにあって呑みにでかけた。ぼんやりしていた駐在員のときよりはるかに元気なのにほっとした。
二〇〇二年、日本の画像処理専用LEDメーカのアメリカ子会社の立て直しにボストンに赴任した。その日本メーカに転職する前にお世話になっていた画像処理システムメーカの本社のすぐそこにジョンソンの家があった。子会社の事務所も画像処理屋の本社もジョンソンの家も住まいから車で二十分もあれば十分だった。
赴任してやっと落ちついてきたとき家族も一緒に夕食に招かれた。その後も昔話や今抱えているどうでもいいことを話したくてメシにでかけた。そんなことが二〇〇五年に帰任するまで続いた。意味のありすぎる長い付き合いだった。

2024/10/6 初稿
2024/11/19 改版
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion13970:241120〕