去る13日、ベトナムの首都ハノイでの世界経済フォーラムの東南アジア諸国連合(ASEAN)会議に出席中のスーチー国家顧問は、ロイター記者への実刑判決についてはじめてコメントしました。ある程度は予想されたことですが、コメントの内容は、これがかつて民主主義のヒロインと呼ばれた人かと思うような驚愕の内容でした。曰く、「判決内容は表現の自由とは無関係。国家機密法に基づいて裁判所が公開の裁判で適正に判断したものである」として、訴訟指揮上の形式や法理上の内容に問題がないとする態度を表明しました。判決に不満があれば上告すればよいまでの話で、あくまで司法領域内のことであって政治が関与する問題ではないということでしょう。これに対して、軍政時代のパーリア国家(pariah鼻つまみ、のけ者)状態への舞い戻りだと評する新聞もあるくらい、西側メディアの反応は最悪です。
確かに人というものがどれほど変わりうるのか、我々はめったに目にできない様な出来事に遭遇しているようです。近代法において権力の横暴を抑制する意味であった「法の支配」が、いつのまにか植民地時代から軍政時代へと引き継がれた人民抑圧の実定法、つまり法家的法治の擁護の論理へとすりかえられているのです。今回の訴訟が「報道の自由」とは無関係だと言い切る態度からみて、スーチー氏は自然法や民主主義の此岸から実定法優位の彼岸へとルビコン川を逆渡りしてしまったようです。もはや、国内改革を安定的に進めるために国軍からの協力を確保すべく、やむを得なく妥協しているのだとするスーチー擁護論は通用しなくなります。国内的には国軍との提携を、対外的には中国をより重視する方向へと舵を切るのでしょう。9月9日には「一帯一路」戦略の重要な一環をなす、中国・ミャンマー経済回廊(CMEC)建設のためのMoU(覚書)が締結されました。※おそらく現在停止しているミッソンダム建設再開の機会をうかがっているに違いありません。
※中国・昆明~マンダレー~チャオピュー~ヤンゴンを結ぶ1700kmの通商路。インフラ、建設、製造、農業、輸送、財務、人材育成、通信、研究および技術を含む多くの分野で協力することに同意―――経済回廊の建設を実施するためには、両国の関連省庁は、ワーキンググループと共同委員会を構成する必要があり、そこでインフラ整備事業の優先事項を設定するとしている(イラワジ紙)。
もしスーチー政権が民主的な改革に本気で取り組むのであれば、司法の独立を実現するための司法制度の改革の手始めとして、まずは植民地時代からの時代遅れの弾圧法を廃棄する仕事に着手すべきでした。テインセイン時代からその要望は社会の各分野から上がっており、またNLDが議会で圧倒的多数を占めている以上、それは論理的には容易なことでした。しかし実際の三権のうち、行政府と司法の要衝は国軍が押さえコントロールしていますから、それとの対決抜きには実のある改革は進まないところに来ていたのです。
口では民主主義のために2008年憲法の改正が不可避だとか、ロヒンギャの帰還にはミャンマー政府が100%責任を負っているとかいうものの、それはリップサービス以上ではなく、本気でやる気はないのです。国軍との軋轢が不可避の民主的改革は断念し、とりあえずはどういわれようと国軍との共同歩調で経済的な成果をあげるしかないと考えているのです。
スーチー政権は国軍との戦略的妥協・和解に踏み込んだ段階で、自分独自の政治意思と変革の意欲を失い、したがって政治的失語症に陥ったのです。政治改革の断念し経済「改革」へと専心する結果、スーチー政権はもはや民主化のための政府ではなくなり、国軍やクロニー資本との連携を最優先におき、外資とテクノロジーの導入によって近代国家へと離陸しようとする開発優先論者になったのです。40万人以上の兵力を有する国軍とクロニー企業が牛耳る既得権と闘ったり、人々のおくれた意識を変えようと努力するのは面倒なこと。自助努力せずに、外国からふんだんに入ってくるモノ、カネ、人、技術をあてにする。なにせ西側世界と中国とが援助競争、投資競争、開発競争をしてくれているので、ほとんどは棚ボタ式に手に入るのです。主役は外国企業、国軍、クロニー企業であって、下手な抵抗はせずにかれらに近代化は仕切らせておけばよい。結果として雇用が増加すれば、国民は裨益されるのだ。ただそのために既成勢力の権益を脅かす税制改革、行財政改革、土地改革などの戦略的課題はすべて先送りされます。かくして新自由主義的な開発の勢いにすべて任せ、作為は極力控えるという仏教風な哲学―東洋風レセフェール―への宗旨替えが、スーチー政権の特色となりつつあるのです。最近スーチー氏がモデルにしているらしいシンガポールですが、リークアンユーの成功は儒教倫理に基づく家父長的支配(宗族支配)や権威主義的組織文化やプラグマティズムに依るのであり、残念ながらミャンマー仏教の非組織性を特徴とする個人主義や無作為主義とは異なっているのです。西欧風の自然法思想から離脱してみたものの、新たに依るべきミャンマー仏教は組織文化を形成する論理をもたないだけに、スーチー氏の方向感覚はますます混迷の度を深めるでしょう。
2018年9月15日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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