「大波小波」では
もう、十日以上も過ぎてしまったので、旧聞に属するが、6月12日『東京新聞(夕刊)』の匿名のコラム「大波小波(魚)」は「<濁流>に立つ言葉」と題して、斎藤史の『魚歌』(1940年)と『朱天』(1943年)の各一首を取ら上げていた。前者の「濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ」と後者の「御いくさを切に思ひて眠りたる夢ひとところ白き花あり」を引用して、史の「美しいイメージは権力に奉仕」する「一変ぶり」に「自立性」を失うことへの警告を発している。問われるのは、史ばかりではないとして「第二の<濁流>の中で立ち続ける言葉を持てるかどうかなのだ」と結んでいる。
安倍政権が推し進めた特定秘密保護法(2014年12月施行)成立、そして「テロ等準備罪」新設への疑問は、依然として根深い。しかも、テロ等準備罪に関しては、衆議院法務委員会で強行採決を経て、本会議で可決、参院では法務委員会の審議を打ち切り、委員長による「中間報告」をもって、即、本会議の採決とするなどの違例の手段で、可決、成立させた。法務大臣始め、曖昧な答弁が続き、解明されないままである。質疑は参議院に移ったが、法務大臣がまともな答弁が出来ず、疑問は解明できず、「テロ等準備罪」の必要性がどんどんと崩れている。組織的犯罪集団の解体、テロ防止、オリンピック開催に役立つどころか、監視社会の強化により市民の活動や言論は萎縮をもたらすだろう。短歌という小さな世界にかかわる表現者としても、このコラムでの指摘は、重く受け止めねばならない。
斎藤史研究の基礎的な作業は
斎藤史は、1941年12月の「開戦」を境に「一変」したというより、彼女が短歌や時代に向き合う姿勢に問題があったのではないかと思う。というのは、私自身、作歌とともに近現代短歌史に関心を持ったころから、著名歌人の戦争責任に触れないわけにはいかなくなって、斎藤史に着目した。彼女の短歌は、老若を問わず、その作品の魅力や生き方を賞賛してやまない歌人たちや読者が多い。そうした人々には、「一変」したのは時代の流れで、だれもが遭遇した、致し方のないことだったとする論調が多い。
しかし、斎藤史に関しては、短歌にかかわる「事実」を、きちんと整理しておかなければならないことに気が付いた。もう20年以上も前のことになるが、私は『風景』という短歌同人誌に「斎藤史 戦時・占領下の作品を中心に」と題して連載していたことがある。「『斎藤史全歌集』への疑問」として、「大波小波」(東京新聞1998年11月5日)に紹介された。基本的な作業として、史が、いつどのようなメディアに、どんな作品を発表していたかを明確にしておかなければと思った。当時に比べると、現在は、資料をめぐる環境も随分変わった。古本は、なかなか入手しにくくなる一方、国立国会図書館で、雑誌のデジタル化が進み、プランゲ文庫の新聞雑誌の検索可能になり、遠隔コピーの利用もたやすくなった。しかし、例えば、史が属していた『心の花』は復刻版もあるのでありがたいが、いわゆる短歌総合雑誌も欠号なく所蔵している図書館が少ない。父親の斎藤瀏と立ち上げた『短歌人』、さらに『原型』などを所蔵する図書館や文学館があっても欠号が多い。前川佐美雄らとの雑誌「日本歌人」「オレンジ」などになると、さらに難しい。最近思いがけず『灰皿』がデジタル化されているのを見つけたりした。
史は、短歌総合雑誌だけでなく、さまざまな文芸誌、女性雑誌、業界雑誌や地方雑誌、児童雑誌、そして新聞と、その寄稿対象が広いので、網羅的な著作目録作成は不可能に近いかもしれない。これまで私は、作品を含めてほそぼそと著作目録の作成を続けて来たが、何ほどのものが集められたか心細い。史の場合は、同じ作品を、さまざまなメディアに、組み合わせを変えたり、あるいは、そっくり同じ作品を、再録との注記もなく、題を変えて、同時に発表したりすることもある。さらに、次に述べるように、歌集収録や『全歌集』収録の際の削除、改作にいたっては、夥しい数にのぼる。歌集収録に当たっての取捨や改作は、「歌集」自体を一冊の文学的な結実として評価するところから、普通によく行われていることであろう。その異動などが、作品鑑賞や研究、作家研究などの対象になることも多い。
二つの『朱天』が意味することは
ところで、1977年刊行の『全歌集』に収録された『朱天』は、初版『朱天』より、つぎのような神がかり的な戦意高揚短歌を含む17首が削除されていたことが分かったのである。それは、『全歌集』刊行時、編集にあたった史が、どういう評価をし、どういう意図で、17首を削除したかは、定かではない。
多くの著名な歌人たちには、生前だったら自らの手で、没後は、遺族の手で、あるいは弟子や第三者の手で、さまざまな編集過程を経て、刊行される≪全歌集≫や≪全集≫を持つ。刊行の折には、明確な編集方針を示すとともに、その意図、理由をも示してほしい、というのが読者の願いでもある。そうすることが、≪全歌集≫や≪全集≫の資料的価値の決め手になるのではないかと思うからだ。歌集は、「てにをは」のミス訂正はともかく初版の原本が基本だろう。編集時の改作、作品の加除は、なすべきではないと、私は考えている。もし、どうしても、その必要があるならば、異動の意図や経緯を明らかにしておくことが重要かと思われる。
歌集『朱天』は、作歌時期によって、大きく「戦前歌」「開戦」に分かれるのだが、『全歌集』に『朱天』を収録する際に、斎藤史は、「戦前歌」という表題の下方に、「昭52記」と添え書きをして、次の1首を付記したのである。
はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば 昭52記
そして、初版1943年、再版1944年の「後記」は、「昭和十八年二月」付で、364首を集めた、と記している。『全歌集』の収録時には、この「後記」と同じ頁に、「昭52付記今回三百四十八首」と付記した。これだけを読むと、16首(364-348首)を削除したことが推測されるが、その理由などは示されていない。その上、初版の『朱天』の収録歌数の実数は、365首だったので、実際の削除は17首であることが分かったので、照合してみると、たしかに、『全歌集』に収録されていない作品が17首あり、その中に、つぎのような作品があったのである。
國大いなる使命(よざし)を持てり草莽のわれらが夢もまた彩(あや)なるを(『朱天』6頁)
初出は『日本短歌』1941年2月号、「秋より冬へ」15首の内の1首であった。さらに、「使命」の部分は「理想」であった。
現(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何かはせむや(『朱天』95頁)
初出は、『公論』1942年3月号「四方清明」5首の内の1首であり、『日本短歌』1942年4月号「春花また」6首の中にも見出すことができる。
神怒りあがる炎の先に居て醜の草なすがなんぞさやらふ
(『朱天』147頁)
初出は『文芸春秋』1942年12月号、「北の防人を偲びて」10首の内の1首であった。『文芸春秋』の短歌のコラムは、現在も続いている、歌人も注目のコラムであるが、斎藤史の登場は、戦前戦後を通して、他の歌人に比べれば、例がないほど、その頻度は突出している。当時、1940年以降、平均すれば、年に1回は作品を寄稿していることになるのである。
『全歌集』刊行の1977年以降、「昭和52付記」の「はづかしき・・・」の一首は、削除した作品を検証することもなく、独り歩きをした格好で、史が戦時下の歌集を隠すことなく、さらけ出した「勇気」や「覚悟」を称揚する論調が拡散した。
それは、戦時下においては、斎藤史が歌壇内外で“人気”の若手女性歌人であったからだろう。しかし、それは、歌人の父、斎藤瀏が2・26事件の反乱将校たちを幇助したとして服役し、1938年仮釈放された後、『心の花』を離れ、『短歌人』立ち上げたのが1939年であった。娘の史は、親しかった反乱将校たちを銃殺刑で失うという、“悲劇”を背負った歌人の父娘であったことと、瀏が、仮釈放後、歌壇に復帰したのが、軍国主義が強化され、軍による言論統制が露骨になった時期であり、歌壇のファッショ化の先陣を切る形での活動が始まったことと無関係ではなかった。その華々しい活動は、著作目録から見ると、他の女性歌人と比べて、そのメディア進出頻度は破格だったことが分かる。
さらに、戦後の斎藤史は、戦前の歴史的な検証というよりは昭和天皇との確執という「物語」を背負い、疎開地の長野にとどまって、父を看取り、長きにわたった母の介護に続き、夫の介護をも担うことになる。初版の『全歌集』が刊行されたのは、夫が亡くなった直後でもあった。
占領下、その後の斎藤史については、別稿としたい。
初出:「内野光子のブログ」2017.06.23り許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/06/post-4431.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0494:170623〕