なぜビンラディンを生け捕りにしなかったのか -欧米はイスラムとの共存に真剣な努力を-

米国がパキスタンで国際テロ組織アルカイダの首領ウサマ・ビンラディンを殺害したというニュースを聞いて第一番に頭に浮かんだことは、何故彼を生け捕りにして9・11事件の裁判にかけようとしなかったかというという疑問である。9.11事件、つまり今年10周年を迎える米中枢同時多発テロは、ビンラディン率いるアルカイダの組織的犯行ということになっている。しかしこれまで米当局が発表した犯行の詳細にはいくつかの疑問点があり、いまだに謀略説が消えていないのだ。謀略説を完全に否定するためにも、ビンラディンを裁判にかけて犯行の詳しい経緯を明らかにすることこそ、法治国家たる米国の義務であるはずだ。

今回の米国の発表によれば、ビンラディンを10年以上追い続けてきたCIAは昨年夏、ようやく彼の隠れ家を突き止めたという。パキスタンの首都イスラマバードの北方60キロほどの避暑地アボタバードにある豪勢な屋敷がその隠れ家だった。昨年夏以来入念な探索を続け、ビンラディンがこの屋敷に間違いなく潜んでいることを確信して、5月2日未明ヘリコプターなどで奇襲攻撃を掛け、ビンラディン本人の他同居人数人を殺害したのだという。ということは最初から彼を生け捕りにするつもりはなく、殺害する計画だったと考えられる。

9・11事件が起きた当時現職だったブッシュ前大統領は事件直後、米国は必ずこのテロ事件の犯人を捕まえて裁判にかけると国民に誓った。しかし1カ月後の2001年10月にはビンラディンをかくまっているアフガニスタンのタリバン政権を許せないとして、アフガン侵攻作戦に踏み切った。タリバンに敵対していたアフガン北方同盟との共同作戦で米国は同年12月にはタリバン政権を追放した。しかしアフガニスタンに潜んでいたビンラディンらアルカイダ指導部を逮捕することはできなかった。ブッシュ大統領は「生きていようと死んでいようと必ずビンラディンを捕まえる」とのセリフを残した。

世界最強の軍事力を行使して世界的覇権を維持すべきだとするネオコン勢力に取り込まれたブッシュ政権は、アフガンの勝利を背景に2003年3月イラク侵攻に踏み切った。当時イスラエルに脅威を与えていた唯一のアラブ首脳だったサダム・フセイン大統領を打倒する狙いだった。イラク戦争のその後の展開は世界が見た通りだ。サダム・フセインは捕まえて死刑にしたが、イラクはテロと宗派間の血肉の争いの現場と化し、米軍はイラク戦争の泥沼から辛うじて引き揚げる出口戦略を、オバマ政権の下でようやく進めることが出来るようになったところだ。フセイン政権はアルカイダとは敵対勢力だったが、イラク戦争は結果としてアルカイダのような過激派をアラブ世界に増殖する作用を果たしたのだ。

米国がイラク戦争にかかりきりになっていた間に、アフガニスタンでは情勢が米国にとって悪化した。いったんは消えたタリバンが復活して、米国などが支援するカルザイ政権に武装反乱を起こし、国土の90%にまで影響力を広げているからである。タリバンはアフガニスタとパキスタンの国境地帯に住むパシュトゥン民族を母体とするイスラム主義勢力だ。米軍に追われたタリバン残党はパキスタン国境地帯に逃れ、パキスタンのパシュトゥン勢力の支援を得て勢力を復活させたのだ。イスラム主義を鮮明にしているが、タリバンの原動力は外国人に支配されたくないという心情であり、19世紀後半から英国、ロシアの侵略と戦い続けた不屈の伝統こそタリバンの真骨頂である。

復活したタリバンとアルカイダの関係は明らかでないが、ビンラディンらアルカイダの中枢がアフガニスタン国境近くトラボラの山岳地帯のアジトを逃れてパキスタン領に逃げ込んだことは確かなようだ。パキスタンは米国のアフガン侵攻以来、タリバンと戦う米国の同盟国と見なされているが、国内に多数のパシュトゥン民族を抱えていることもあり、米国に忠実を尽す同盟国とは言えない。パキスタンの軍情報部ISIは1990年代前半のタリバンの発足当時、タリバンを物心両面で支援した歴史がある。それは主敵である東のインドに対抗する戦略上、西のアフガニスタンに親パキスタン政権をつくりたいという地政学上の必要からだ。

1980年代アフガンのイスラム民衆が対ソ連のゲリラ戦を戦っていた当時、パキスタンはゲリラを支援する国際センターの役割を果たした。そこにはビンラディンらアラブ義勇兵、サウジアラビアやクウェートなど湾岸石油大国のスポンサー、それに対ソ戦略上、アフガン・ゲリラに武器や資金を供給するCIAらがひしめいていた。サウジアラビアの富豪の息子ビンラディンは当時ゲリラ支援のスポンサーとして、パキスタンの情報機関と深い付き合いをしていた。こうした人脈がパキスタンの保養地にビンラディンの隠れ家を潜ませる遠因になっていたと思われる。それにはイスラム教徒同士の深い心理的因縁もあるだろう。

現在世界中には13億人から14億人のイスラム教徒が存在するという。このうちビンラディンのような反米過激思想に従って、闘争戦術を選ばないテロリストはどのくらいいるか。全世界でせいぜい2万人か3万人程度というCIAの推定値を見たことがある。イラクで、アフガニスタンで、パキスタンで、パレスチナで毎日のように自爆テロが発生しているのも事実である。自爆テロ戦術が目立つようになったのはイラク戦争からで、それにはビンラディンのイデオロギーが間違いなく作用しているだろう。アメリカという悪魔の国と戦うには、軍人、民間人の区別なくアメリカ人であれば誰でも殺害しても構わないというのが、究極的なビンラディンの教えである。

圧倒的多数のイスラム教徒がこの教えに従うつもりはないことは明らかだ。しかしイスラム教徒全体からすればほんのケシ粒ほどの数だが、米軍や米国に味方する者を殺すのに自爆したいという殉教志願者が後を絶たないことも事実だ。それは米国を先頭とするキリスト教世界が、イスラム教徒を蔑視し差別していることに遠因がある。中世の暗黒時代、つまりルネッサンスまではイスラム文明がキリスト教文明より進んでいたのに、ルネッサンスから産業革命を経て先進国化した西欧が19世紀以降イスラム世界を侵略し植民地化した歴史が、キリスト教徒の根深いイスラム教徒蔑視観を支えている。またイスラム教徒側からする欧米への強い敵対意識の原因である。

それだけではない。イスラム教徒は、欧米がパレスチナ問題で常にイスラエルの肩を持ってパレスチナ人の権利を踏みにじっているのを悔しく思っている。キリスト教世界はほぼ2000年にわたってユダヤ教徒を迫害差別してきた。その極致がヒトラーのナチ体制によるユダヤ人迫害である。600万人のユダヤ人を殺したというホロコーストは、キリスト教社会にとって消すことのできない原罪である。その贖罪のためにユダヤ人国家イスラエルを擁護し、結果としてイスラム教徒迫害に協力するするキリスト教世界―。テロを支持しないイスラム教徒も、心の内ではこうしたキリスト教世界への嫌悪感を否定できない。ましてイスラム教徒は唯一絶対神アッラーのみを信仰する人々を同胞視する感情が特に強いのである。ビンラディンが事ある度にパレスチナ人の悲劇を前面に出して米国を非難したことは、パレスチナ問題が全てのイスラム教徒の心根を貫くからである。

アメリカ国民はビンラディン殺害のニュースを聞いて、深夜にもかかわらずホワイトハウス前に集まって歓喜に踊り狂った。その心情は理解できないわけではないが、それだけでは困るのだ。フロリダ州の小さなキリスト教会の牧師が先ごろ、イスラム教を断罪すると称してコーランを衆人の前で焼いて見せるという事件があった。そのような行いは宗教人として言語道断だが、アメリカの田舎ではこんなことも起こり得るのが現実だ。しかしイスラム教を愚弄すればテロはなくなり、アメリカはそして世界は平和になるのか。今こそアメリカ人を先頭に欧米キリスト教世界はイスラム世界との共存に真剣に取り組むべきだ。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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