ひっくり返しちゃだめよ

ブルマンさんの話とダブりますが、一般的等価形態の導出(第2形態から第3形態への移行)の際、マルクスは、読者に「何じゃ、これ?」と言われてしまうような方法でそれを行なってしまいました。相対的価値形態と等価形態をひっくり返すという「逆転の論理」ですね。これを別の言葉で言うと、「亜麻布がいろいろな商品を欲している」ということは、「いろいろな商品がすべて亜麻布を欲している」ということになります。こんなことが言えるでしょうか。「私の好みの女性『たち』は、『みんな』私を好いている」―完全に超ストーカーの論理です。この方法の難点をもう一つ。相対的価値形態にある商品を多数にしてひっくり返せば、どうなるでしょうか?ありゃりゃ、無数の一般的等価形態が生まれてしまう。これじゃ!

「一般的」等価形態にはならない。

 

ブルマンさんも指摘していますが、実は、マルクス自身このことに気付いていたのです。『資本論』初版で、マルクスは、相対的価値形態にある商品を多数にしてひっくり返したのです。結果は上記のとおりで、結局、マルクスは「貨幣の導出」をあきらめてしまいます。あれっ?どこかで似た話を聞いたことがありませんか?話の進め方は少し違いますが、「無数の一般的等価形態が生まれてしまう」という結論は同じです。そうです。「ポテトチップスで100円が買える」とおっしゃった先生のご本ですね。

 

とにかく、「ひっくり返せば」矛盾が生じるわけです。では、どうすればいいのでしょうか?多数の総体的価値形態にある商品が、それぞれ等価形態にある多数の商品を欲しているという状態からスタートしましょう。右辺(等価形態)に共通に求められる商品が2,3種類あるはずです。そうすると、相対的価値形態の商品所有者の中から、こういう考えが浮かんでくるでしょう―「この共通に求められる商品と俺の商品をいったん交換して、それからそいつを使って今欲しいものと再度交換しよう。そいつを使えばみんなが交換をOKしてくれるからだ」と。彼は、「そいつ」の中に「交換力」「直接的交換可能性」「流動性」を見出したわけですね。ここに一般的等価形態が成立するわけです。むろん、「そいつ」は1種類とは限りません。しかし、「無数」ではないことは確かです。

 

「そいつ」は、一般的にその使用価値がより多くの人に求められている物と考えていいでしょう。それが、ここに至ると、まさに反対に、交換手段すなわち「価値の担い手」としてのみ求められることになります。パラドックスが満ち溢れている『資本論』の中で、私が一番パラドックスを感じるのはこの部分です。

 

おや、いよいよ「金色に輝くこの世の神」のご登場かな。