まだ「対米従属」を続けるのか? -対談『転換期の日本へ』を読んで-

著者: 安原和雄 やすはらかずお : ジャーナリスト・元毎日新聞記者
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 対談『転換期の日本へ』の著者が日本の読者に語りかけるものは何か。それは<まだ「対米従属」を続けるのか?>である。この核心をつく問いかけから逃げるわけにはゆかない。今後も「対米従属」を続けることになれば、日本はどうなるのか。
 その一つは、沖縄の軍備を増強し、日米による中国封じ込め策の要塞とする動きが強まることである。もう一つは、安倍首相の唱える「積極的平和主義」とは、日本に平和をもたらすのかである。それは米国が要求すれば、日本も積極的に参戦することにほかならない。言い換えれば「積極的平和主義」は戦争を志向するまやかしの平和主義である。(2014年6月10日掲載)

本書『転換期の日本へ』(NHK出版新書、2014年1月刊=明田川融、吉永ふさ子 訳)の副タイトルは<「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か> ― となっている。
著者は以下の2人である。
*ジョン・W・ダワー=1938年生まれ、マサチューセッツ工科大学名誉教授。著書「吉田茂とその時代」(中公文庫)、「敗北を抱きしめて」(岩波書店)など。
*ガバン・マコーマック=1937年生まれ、オーストラリア国立大学名誉教授。著書「空虚な楽園ー戦後日本の再検討」(みすず書房)、「属国ー米国の抱擁とアジアでの孤立」(凱風社)など。

本書の要点を以下に紹介し、それぞれに<安原の感想>を述べる。
(1)協力か、軍事化か
尖閣(釣魚)諸島をめぐる(2012年の)出来事は、世論というものが、どんなに容易に煽り立てられるものであるかを見せつけた。日本、中国、台湾のどの国であれ、自分だけが正当に尖閣諸島の領有権を持つという主張をしている限り、東シナ海が「平和と協力、そして友愛の海」に変わることはないだろう。日本の、そして世界のメディアも、中国が「ますます了見が狭くて、虎視眈々と自分の国の国益だけを狙う、国家主義の権化(ごんげ)」になっていると非難する。尖閣諸島や南シナ海での係争は、中国の世界に向けた「挑戦」だと捉えられる一方で、日本政府の非妥協的、好戦的論調について触れられることは余りない。そのような中、沖縄の軍備を増強し、日米による中国封じ込め策の要塞とするべく着々と行動する。

<安原の感想>中国封じ込め策の要塞
ここで見逃せないのは「日本、世界のメディアが中国を非難しながら、その一方で、日本政府の非妥協的、好戦的論調に触れられることは余りない。沖縄の軍備を増強し、日米による中国封じ込め策の要塞へと行動する」という指摘である。日米による中国封じ込め策の要塞、という認識は適切と言えるのではないか。自分の真の意図を曖昧にみせるために相手を非難する手口は常套手段でもある。しかし真実を伝えるべきメディアの姿勢としては決して望ましいことではない。むしろ邪道である。

(2)真の「戦後レジームからの脱却」
2013年、日本政府は国境の島々の「防衛」に焦点を置くと発表した。このことから島民は、本土攻撃をできるだけ引き延ばすため、沖縄が米軍の上陸と攻撃の矢面に立つことを強いられた1945年4月に何が起こったかを思い出す。
現代日本には、沖縄のように県民が結束して、「ノー」を突きつけた前例はない。地元の意思を無視し、日米政府の合意だからと、新たな米運基地建設を押しつけようとする動きを、県民は1996年以来拒否し続けてきた。民主的憲法の原則を大事にするより、米国の軍事的、経済的戦略を最優先させる政府に対する沖縄県民の抵抗は実に根強く、したたかなものである。
「沖縄問題」解決のための努力は、なによりもまず、大浦湾を埋め立て辺野古に新基地を建設する計画を白紙に戻し、米国と再交渉すること、そして「沖縄の基地負担軽減」を具体的に目に見えるかたちで沖縄県民に示すことから始まる。また、なによりも戦後日本政府が踏襲してきた米国依存の精神を捨て、政府も国民も自立することが必要であろう。安倍晋三首相とは違ったかたちの「戦後レジームからの脱却」と「日本を取り戻す」努力が市民の責務である。

<安原の感想>「日本を取り戻す」努力を
上述末尾の<米国依存の精神を捨て、政府も国民も自立することが必要であり、安倍首相とは異質の「戦後レジームからの脱却」と「日本を取り戻す」努力が市民の責務>という指摘は適切である。これを実現するためには反安倍路線に徹する努力が不可欠である。言い換えれば右傾化路線を進める安倍路線をどう転換させるかである。安倍首相自身が自己反省して転換するだろうか。その可能性は皆無に等しい。全国レベルの反安倍勢力の結集を図り、安倍政権を崩壊させる以外に妙案は考えられない。

(3)「積極的平和主義」の国の「平和隊」
安倍首相は2013年9月国連総会出席のため、訪米し、演説した。積極的平和主義を掲げ、世界の安全保障に貢献する決意を語った。この「積極的平和主義」は好ましい印象を与える。期待感を起こさせる。しかし安倍首相は集団的自衛権の行使、国家安全保障会議の設置に強い意欲を示し、安倍政権下での11年ぶりの防衛予算増額に言及し、米国の要求するような、米軍と肩を並べて戦争に参加する国へと踏み出したことを宣言したのだった。安倍式「積極的平和主義」とは、米国が要求すれば、日本も積極的に参戦することであった。
安倍首相が日本を「積極的平和主義の国」として、世界に売り込む姿を目の当たりにして、日本国憲法の平和条項を擁護したい人々が、苦々しく思うのは当然である。基地負担軽減の言葉とは裏腹に「軍事第一」「基地第一」主義を押しつけられてきた沖縄では、その思いはさらに強烈であろう。
ジョージ・オーウェル著『1984年』の中に、真理省が「戦争は平和である」と述べた有名な文言があるが、安倍首相が「積極的平和主義」に続いて、次は自衛隊を「平和隊」と改称する日も遠くないだろう。

<安原の感想>積極的平和主義のまやかし
安倍首相の唱える「積極的平和主義」とは何を意味しているのか。一見「積極的反戦主義」とも受け取られやすいが、実は決してそうではない。その正反対である。「米国が要求すれば、日本も積極的に参戦する」という意味である。「平和主義」の看板を掲げながら、その実「積極的戦争主義」を指しているのだから、言葉の使い方が乱暴すぎる。上述末尾の<安倍首相が「積極的平和主義」に続いて、次は自衛隊を「平和隊」と改称する日も遠くないだろう>という懸念は的確というべきだろう。

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(14年6月10日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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