『暴力装置』とはなにか?
27日付けで半澤健市氏の<暴力装置論 一億総ナショナリズムへの遁走>(注1)が掲載されている。
半澤氏は、仙谷氏の「自衛隊は暴力装置」発言への攻撃にたいして、自衛隊や軍隊が「暴力装置」であることは「自明のことである」という。たしかに、この件に関しては「右」の論者からも同様の声があがっている。
しかし官房長官が「自衛隊は暴力装置」というのは、やはりおかしいのだ。
それはこの語の歴史をたどればわかる。日本語の「暴力装置」は、レーニン「国家と革命」のdes・・・Apparates der Staatsgewalt――しばしば「国家暴力の装置」と訳される――を抜きには語ることができない。じっさいこの言葉で昔を思いだす人も多いだろう。(この種の著作が、「一般教養」の対象だった時代があったのだ。)
それで今回久しぶりに「国家と革命」を「引っ張り出し」、この言葉(ApparatとGewalt)がどのように使われているかを検索してみた。いや「引っ張り出す」といっても、検索するのは、デジタル化されたテキストのほうが便利だから、じっさいはネットにたよったわけだが。
さて、検索して確認できたのは、「国家と革命」ではApparatもGewaltもそれぞれ、多数の用例があるけれど、両者が結びつけられているのは、des・・・Apparates der Staatsgewalt(注2)という形で、ということだ。
これは、
「被抑圧階級の解放は、暴力革命なしには不可能なばかりでなく、さらに、支配階級によってつくりだされ、この「疎外」を体現している国家権力機関を破壊することなしには不可能である」(注3)
というように使われている。
このように書くと、「暴力装置」なんて何処にもないんじゃない?と言われるかもしれない。
じつはここで「国家権力機関」と訳されているものが、des …Apparates der Staatsgewalt(国家GewaltのApparat)なのだ。
Apparatのほうは「装置」と訳すべき場合と、「組織」、「機関」と訳したほうが良い場合がある。ここでは国家の「機構」が問題になっているから、ここのApparatは普通に訳せば、「組織」とか「機関」。
次に、Gewaltは「暴力」と訳したほうがよい場合と、「権力」と訳しほうがよい場合がある(注4)。
ここでは国家Gewaltといわれているが、これは明らかに総体としての「国家権力」を意味している。そうでないとすると、レーニンはここで軍隊と警察だけの解体を提起し、行政権力、立法権力などの解体は提起していないという、「国家と革命」の筋からしてヘンなことになってしまう。したがって、この「国家GewaltのApparat」とは、「国家権力機関」総体であり、直接に「軍隊」を意味しているわけではないのだ。
ところで今日、「国家権力機関」総体を人格的に体現しているのは誰か?それは仙谷由人氏であろう。レーニンが「破壊せよ」と言っているのは、仙谷氏に体現される「国家権力機関」なのである。これをあえて『装置』というのなら、仙谷氏(や菅氏・前原氏)こそが、支配階級の(アメリカの?)『装置』(のパーツ)である。
暴走しているのは「文民」ではないか?
半澤氏は、<[軍隊という意味での――安東]「暴力装置」はしばしば暴走する。・・・「文民統制」はこの課題に対する一つの有力な回答である>という。
しかしこの後の氏の文を読むと、「文民統制なるものは、実際は有力ではないのでは?」と思われてくる。だからこそ氏も全然すっきりしていない(「私は考えあぐねている」と言われる)。
実際『毅然とした態度』を取りたがる前原氏や「中国は悪しき隣人」という枝野氏は、「文民」ではないか。彼らこそ、国民を煽り、際限もなくアメリカに従い、戦争を準備しているではないか(注5)。そして半澤氏のいう「現在考えられる戦後民主主義の一線級の旗手」(?)仙谷氏こそ、彼らの正真正銘のお仲間(凌雲会)ではないか(注6)。
歴史を見れば、戦争は、じっさい如何に国民自身によって推進されてきたか。「文民」や「国民」が暴走するのだ。それを軍部・軍人だけのせいにするのは、国民自身(インテリなど)の責任回避でしかない。
『戦後民主主義』なるものは、そうした欺瞞の「嫡子」であるからこそ、つねに「戦争の危険」を「軍隊の暴走」というシナリオで、国民の外部にあるものとして表象する。
そうであるからこそ自衛隊を『装置』と呼んで憚らない。人間を部品とする「装置」を「文民」が統制すべしという言説は、もちろん「人間」を道具(手段)とすることを前提している。(日本では、こういう人たちが「カント」を持ち出したりするのだ。)
半澤氏は現下の状況を「一億総ナショナリズムへの遁走」という。しかし「ナショナリズム」以外のなんだったらよいのか?たしかに「世界市民」になるとか、「世界宗教」に帰依するのもよいとは思う。しかしそういうもので「ナショナリズム」がなくなるのか?歴史が示すことは、必ずしもそうではない。
むしろ「(内と外の)ナショナリズムと如何に折り合いをつけるか」が、「動乱の時代」時代を生き抜くための「知恵」というものではないか。
(注1)https://chikyuza.net/archives/4808
(注2)参照した「国家と革命」のテキストは以下の通り。
日本語テキストhttp://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/kokkaku1.html
ドイツ語テキストhttp://www.mlwerke.de/le/le25/le25_395.htm
なお、私はまったく読めないが、
ロシア語テキストはhttp://magister.msk.ru/library/lenin/lenin007.htm
(なお、Apparatは露語でもаппарат, Gewaltは露語ではвластиとなっている。)
(注3)引用は、注2に示した日本語テキストによる。これは「第一章 階級社会と国家、一 階級の非和解性の産物としての国家」の末尾に近い部分である。
引用箇所の「独文」を(前後を含めて)以下に記す。
wenn er eine ÜBER der Gesellschaft stehende und “sich ihr MEHR UND MEHR ENTFREMDENDE” Macht ist, so ist es klar, daß die Befreiung der unterdrückten Klasse unmöglich ist nicht nur ohne gewaltsame Revolution, SONDERN AUCH OHNE VERNICHTUNG des von der herrschenden Klasse geschaffenen Apparates der Staatsgewalt, in dem sich diese “Entfremdung” verkörpert.
(注4)小学館の独和大辞典のGewaltの項は1として、「(Macht)権力;支配力,制御力」とあり、「:die gesetzgebende~, 立法権|die vollziehende〈ausführende〉~執行〈行政〉権 | die richterliche〈rechtsprechende〉~司法権」・・・などが例として挙げられている。
(注5)菅・仙石・前原などの各氏が、どのように防衛・安全保障政策を『前進』させたかについては、孫崎享氏のツイッタ― http://twitter.com/magosaki_ukeruを参照していただきたい。
(注6)「凌雲会」については、とりあえず、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%9B%B2%E4%BC%9A#.E8.A1.86.E8.AD.B0.E9.99.A2.E8.AD.B0.E5.93.A1
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
[opinion0229:101130〕