3月11日(金)奇しくも311から5年目の日、一日中、友愛党会議を繰り広げていた。
以下の文章をその友人へ捧ぐ。
まずは、わかり易さの図表から。
http://revolutio.exblog.jp/22969707/
まさに、高倉健氏の『君よ憤怒の河を渉れ』『野生の証明』の様な悪しき地方行政の在り方が現実にもあるものである。
甘利大臣のように限りなく灰色であるあっせん利得罪の在り方がまかり通る世界、それも一つの《共同体の在り方》であり、癒着、談合として苦悩する大国中国の雛型、前近代性としての在り方は、もちろん、日本にもあるのである。
「良い物象化、悪い物象化がある」(by吉田)「良いロック、ゲスロックがある」(byYMO坂本龍一)
「良い共同体の理想もあり、悪しき全体主義もあるのは当然であり、その峻別を問題としているのが、21世紀の現在であるのであり、ちきゅう座共同でもあるはずである」
リアル高倉健を生きたい男気と言うものは、全学連と「昭和残侠伝シリーズ」にあったもの。それは、清原の麻薬汚染、野球賭博腐敗とは全く違うものであり、深作欣二監督、菅原文太氏の「仁義なき戦い」の理想と葛藤とY組分裂抗争とは全く違うのだと言う事を説明していきたいのだが、これは、言わずともわかる人にはわかるものであるのだが、フィクションから実録としてのリアルを今でも問いたい。
(蛮勇は、勇気ではない。怖いもの知らずの僕であるようであるが、Y組には、純粋な怖れは持ち続けているのである。社会悪、巨悪については、ゲバラの様に立ち向かいたいが、その峻別についても時間があったなら語りつくしたい要素でもある。これをまずわかってほしい。)
子供の頃のヒーローは、強烈なものであり、それは、ショーケン(萩原健一)の『鴨川食堂』そして、「頑固な大人でありたい」と述べていた沢田研二氏と山本太郎氏の荻窪駅での選挙タッグにまでつながっている事が唯一の希望であり、日本改革の導火線であると僕は、その系譜を受け継ぎたいと考えているのだ。
それは、SEALDs、市民連合そして、
3.18文京シビックに集結して日本を取り戻す!
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/318-1a78.html
までつながっているのではないだろうか?
真田幸村と忍者ブームを現代化する『真田丸』にまでつながるものは、
白土三平『カムイ伝』『真田剣流』『サスケ』の復活を望むものであり、微かな良心の発露を感じている。
これは、繰り返し語っている僕自身の偽らざるルーツである。
スポーツと人生の在り方は、梶原一騎から『巨人の星』『あしたのジョー』あり、医学博士である手塚治虫の『ブラックジャック』があった。
まだまだ、昭和のサブカルチャーは戦っていたのだが、今は、その良き気概を喪失している事が問題であるように思えているのだ。
みな、仕事に追われ疲れている。
睡眠が必要である。
ちきゅう座は、一般向けではなく、
「話は聴いているが好き嫌い受け取るのはおれである」
「ISに入れと言っている様なものである」と言う意見も出ていたが、「おいおいである」
アカデミックである事、哲学や経済学研究がその様に映っているのかい!?
当たり前の事を当たり前に話し合える社会にしていこうよ。
カルト宗教、オレオレ詐欺が蔓延している資本主義の病理に立ち向かうリアル高倉健になろうよ。(気概だけでも)
情報弱者社会を彩っている病根を、認知症、医学独占タブーと共に断つのが目的となっている。
更なる大衆に開かれたる「ちきゅう座」を目指していかねばならないだろう。
前回の「世界資本主義Ⅰは、超入門、これ以上わかり易い説明はないと言うほどにかみ砕いて書いたつもりだったが、時間がなく、咀嚼できないとしたら残念である。
労働奴隷、プロレタリアートにはその時間は、まさに、今でも贅沢品である事がわかり過ぎるほどわかる。
余暇、アカデミズムは、ヘイトの対象となっている現実があるのだ。
それを、まず、ちきゅう座においても知らねばならない現実であるのか知れない。
わかり易さの学校をここで、ちきゅう座で目指していこう!
この続きは、日曜日にする運びとなっているのである。
友愛党の展開に乞うご期待である。
《全力で、その人の命(生涯)を守り、救いたい》
頑張っている老人たちを応援したい。
これこそが、良心の発露でありライフワークである事を友に伝えていきたいだけである。