わたしと戸籍 ― 「戸籍」私史(その3)   

「競争相手は女子だけ!入りやすいばい!」
 大学は「お茶の水女子大」の「文教育学部」だった。
 小学校4年から6年の、短大卒の青年教師の下での3年間、時代は1952(昭和27)年から1955(昭和30)年のことである。すでに敗戦直後ではなくなり、何と「朝鮮戦争特需」で経済も息を吹き返し、日米安保条約も締結され、形式的には日本の「独立」も成就された。ただ、「もはや〝戦後ではない”」とうそぶかれる1955年前の3年間、北九州小倉の小学校は、未だ文部省の統制も及ばない「自由な教育空間」だった。
 何を、どう学ぶか?・・・新米教師と子どもたちとの共同作業。社会(日本史)は、それぞれ興味のある時代を班ごとに分担して発表したり、算数(円の面積)は、それぞれ勝手に、紙を貼ったり、糸やコンパスを使ったり、切り刻んだりして、近似値を弾き出したりした。学年末の学芸会には、クラスのみんなで創作した「アマゾンの一粒の種」などを演じたりもした。
 お金がない、お米がない・・・ゆえの朝の食事抜きも、お昼の給食で一息つくことができた。1、2年時の脱脂粉乳だけの支給から、コッペパン付きの「普通の給食」に代わっていたお蔭である。
 それに加えて、学校から町の映画館に皆で見に行った映画「二十四の瞳」(高峰秀子主演)が決定打になったのか、私は「小学校の先生になる」と決めていたようだ。
 高校3年の夏、突如担任から声をかけられた。「おい、池田。来年から特別奨学金が新たに加わることになったようだ。ただ、それには、この夏のテストを受けなきゃならん。小倉高校は数名の割り当てがあるが、西高(戦前は小倉高等女学校)はどうも1名だけのようだが・・・」
 何とも他力本願な話である。言われるままに受けたテスト。結果は「合格」?! 高校3年12月のことだ。その特別奨学金をよくよく調べれば、親から一切援助なしで大学生活を送れる金額ではないか。
 それまでは、第一志望・九州大学教育学部、第二志望・福岡学芸大学・・・それを、第一志望だけ東京に変えた。好きな男の子が「東京」の人だったからだ。第二志望は、大学生になったら筑豊の子どもたちのために紙芝居や人形劇をトラックに積んで回りたい、という夢が捨てきれなかったためだろう。
 東京で、教育学部のある国立の大学・・・そして見つけた「東京教育大学」(現在の筑波大学)を担任に「志望校変更」として提出した。
 その時担任はこう言った。「うん?東京教育大?こりゃあいかん、去年の倍率が19倍になっちょる!どうせなら、そのすぐ前にある〝お茶の水”にしろ!そこは女子大学やから男子と競争せんから入りやすいばい」。
 そう言われて、当時の私は「何たる女性差別!」と腹を立てる訳でもなく、素直に「じゃ、そうします」と、「お茶の水女子大学」と書き換えたのだった。

グラムシの「有機的知識人」に憧れて

 大学に入学して以降のことはすでに記したように、東京教育大との共同サークルだった「セツルメント」に入部。氷川下の界隈を抜けて、東大植物園の前を通り過ぎた辺りに、当時は、ゴミゴミしたバラック建ての地域があった。正式の町名だったのか通称だったのかは不明だが、周りでは「みのり」地域と呼んでいた。
 演劇部や児童文化研究会への入部は儚く消えたが、土曜日ごとに小学生に勉強を教えたり、植物園に遊びに行ったり、いろいろな年間行事を設定しては楽しんでいた。
 ただ、そこのサークルはいわゆる「左翼」の色つき。初めこそ、民青(日本共産党の青年組織)―共産党の系列下に置かれていたが、1961-62年、先輩たちが一斉に共産党を除名されたいわゆる「構造改革派」に移っていったため、私もまた、セツルの先輩兼恋人にオルグ(説得?)されて、構造改革派の青年組織「共青(共産主義青年同盟)」に加盟した。今から思えば、大学の選択も、政治組織への参加も、何とも主体性の無い「男先生や男性に言われるままの女の子」風情なのだが、当時、本人としてはそれなりに納得しての選択ではあった。
 大学に入学したばかりの頃、「セツル(メント)」の打ち合わせ会議をするという際に、それぞれ時間調整をした時間帯は、私の英語の授業とピッタリ重なっていた。「ダメです、そこは!英語の授業です!」と強く言ったら、何と先輩たちは、一斉に笑った。「何だよ授業かよ~抜けて来いよ!」と。確かアメリカの劇作家ユージン・オニールの「Beyond the Horizon」を読んでいた授業だった。その授業は出たかった。そう思うと途端に涙が溢れた。それを見て、先輩たちはまた笑った。
 そんな私も、次第に大学生活にも慣れ、授業を適当にサボルことも苦ではなくなった。もっとも、その時代の大学では、出席も取らない授業が大半だったし、フランス語初級の授業では、「皆さん、どうしてこんなに大勢、今日の僕の授業に出ているんですか?今日は日韓条約反対のデモがあるんじゃないんですか?そちらのデモの方が余程大事だと思いますがね・・・」などと挑発する教師までいた。
 大学2年の後期、自治会の選挙に出ないかと共青から推された。相手候補は民青である。民青の表面的・欺瞞的な「柔な対応・姿勢」には理論的にも感覚的にも納得出来ず、ついに自治会の委員長として2期務めることになった。
 そうして迎えた大学4年。卒論のタイトルは「資本主義と教育―「教育投資論」をめぐって」である。左翼学生丸出しの資本主義的教育への批判をストレートにぶっつける内容だった。
 さてその後の進路は?・・・ここでハタと立ち止まらざるを得なくなった。というのも、大学3年の教育実習の後、愕然と?悄然と?していたからである。
 教育実習は、当然のように附属小学校で行われる。「お茶の水女子大学付属小学校」・・・それは言うまでもなく「名門小学校」の一つ。もっとも、入学は地域的に限定されているし、選抜方法は「抽選」だったけれど、それでも東京都の「文京区」に居を構えられる人の階層は決まっているのだろう。中には「寄留」という裏技もあると聞いてはいたが・・・。ほとんど上層階層の子どもたちだった。
 私が小学生だった頃からほぼ10年。時代も変わり、子どもたちの様子もすっかり変わっていた。算数の豆テストの結果を各自に返す時でさえ、大騒ぎである。自分の点数は他の人に見られたくない、というのだ!私たちの時代は、「テスト」とは自分の間違いを大切にする時間!そして同時に、友だちの間違いも共有する時間!だった。担任は「間違いは宝!」とまで言っていた。
 それなのに、目の前の子どもたちは、自分の点数を隠してばかり。カーテンの裏に入り込んで点数を見たり、答え合わせの時も、小さな答案を折り畳んで、自分の点数が他人に絶対に見えないように四苦八苦していた。
 「学ぶ」というのは、こういう事ではないはずなのに・・・。この10年で日本の学校は整備されコントロールされてしまったのだ・・・。私が教師になりたかったのは、こんな学校ではなかった・・・。さて、どうすればいい?
 そこで私は考えた。私の大学生活の大半はサークルや自治会活動に明け暮れ、マルクス・エンゲルス関係の文献は読んだものの、圧倒的に勉強不足である。まして、「教育」ひいては「日本の教育」についての勉強は手つかずのまま。だとすれば、これからの私の課題は「日本の教育」についての勉強であり「あるべき教育」への研究ではないか、と思った。当時傾倒していたグラムシ(イタリア共産党)が提唱していた「有機的知識人」に少しでも近づければ嬉しいことだ・・・とも。もっとも、この「有機的知識人」という発想自体、多分にエリート主義的な「革命思想」だったのではあるが・・・。
 1年間、大学院に入るための語学の勉強その他、浪人覚悟で、ゼミの担当教官に「大学院進学希望」を申し出た。お茶大には当時はまだ大学院が設置されていなかったので、お向かいの東京教育大の大学院を志望した。その時、私たちのゼミにも顔を出していた若手の教官が、「池田さん、東大の教育行政の研究室は、大学院入試の時の外国語は1カ国だけです。しかも教員が、日共系、リベラル系、構造改革派と揃っていますよ。いま、一番面白い研究室ではないですか!そこを是非受けなさい!」と、言ってきた。私はポカンとしたまま、「そうですか・・・じゃ、そこを来年受けるようにします」と答えたら、すかさずその教官、「折角なら、今年、試しに受けて見たらどうですか?状況も分かるし、準備するにも参考になるでしょう」と。
 こうして、その3月、東大大学院の教育行政専攻を「様子見受験」したのである。「合格するかな・・・落ちたらどうしよう・・・」という余計な心配とは全く無縁のままの「お試し受験」。他の受験生の意外な緊張ぶりが気の毒なほどだった。それなのに(それだから?)、私はそのまま合格したのだった。

父への親孝行としての「結婚式」―「東大大学院」という名の効用?
 前回、すでに触れたことだが、私はサークル「セツル」の1年先輩と、大学3年の頃には共同生活をしていた。そこは、高田馬場のガード下。駅から2、3分の所である。その便利さゆえに、その頃は「セツル」のOBや友人の溜まり場でもあった。
 それでも「結婚」という形には無頓着だったのだが、大学院受験を目前にして、奨学金授与のために急きょ「婚姻届」を出すことになった。それは急に「成り金」になった不動産業の父の元から独立しなければ奨学金が貰えなくなる・・・という危惧からであった(と、前回にも触れた)。
 ところが、私が東大大学院(修士課程)に進学する事、「婚姻届」を出したことが、どこかから伝わったのか、北九州小倉の父の耳にも入ったらしい。すると、いきなり「結婚式を挙げるから、小倉に帰って来い!」との知らせが届いた。
 私の相手の彼の父親は、戦後すでに亡くなっており、私の祖母と同世代の母親と、私の母とほぼ同年齢の姉とで、高田馬場の呑み屋街の一角で、小さな店を持っていた。その辺りのことも承知していたのか、私の父は、彼の母も姉も式に同行するように・・・と言って寄こした。「結婚式」に関わる費用はすべて儂に任せて置け・・・ということだったのだろう。
 「結婚」ということにも、「婚姻届」にも消極的(態度曖昧)だった私である、ましてや多額のお金のかかる「結婚式」には、どうにも気が進まなかった。それで、父とは離婚していた母に、「結婚式なんて嫌だな~~それに掛かるお金を貰いたいくらい」と零したら、母はキッパリとこう言った。「今まで貧乏してきたお父ちゃんが、あんたのために式を挙げてやる、それができるっち、嬉しいんよ!だから、親孝行と思って・・・いらんこと言いなさんな!」
 どんな経緯があろうと、父にとっては「東大大学院」という名前は、誇らしかったのであろう。その名前の前では、私が左翼学生であることや、そこが「民青」の拠点であること、私がどんな経緯でそこに進学したのか、そして、それらと同様に、私の結婚相手が貧しい女系家族の末っ子である、ということも、すべて論外となったのかもしれない。
 私の関係としては、小学校・中学校の先生と、少しの友人と、「生け花の教師」という肩書きで出席した母と・・・後はほとんどが父の仕事の関係者ばかり。そういう結婚式で「花嫁姿」になっていた私である。式が終わった後で、顔見知りのおじさんがやってきて、「真っすぐ前を向いて、食事もよお~食べて、花嫁らしゅうない花嫁さんじゃったな~~」と言って笑った。私はそれを聞いて、本当に真っ赤になって、今更ながらに、穴に入るか、逃げ出すか、したくなったものだった。(続)

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