「結婚」後の暮らし
(1)「暮らし」の中で見えて来たこと
大学院での奨学金取得のために慌てて「婚姻届」を出した私たち。しかも、不動産業で急に豊かになった私の父親に、「おんぶにだっこ」で結婚式まで挙げてもらった私たちだが、その後、東京に戻って来たものの、相変わらず高田馬場のガード下の6畳ひと間暮らしだった。彼の母親と姉がやっていた小さな呑み屋さんのすぐ近くである。
彼は、江戸川区を中心とした東京下町の「全統一労組」の専従オルグとして働き始めた。そこの労組は、「一人からでも加入できる」というので、会社に組合のない中小企業はもちろん、靴屋や画材屋、家具屋など、その他の零細企業の従業員から、賃上げ交渉や首切り反対闘争のためにとても頼りにされていた。
学生時代から、左翼(グラムシ構造改革派)として活動してきた彼は、その頃も「革命のための労働者階級」の役割を重視していたし、組合の専従という仕事に生き甲斐を感じていた。もちろん、その頃は、私もまた同じ、「組合活動は意味ある仕事」と思っていた。
一方私は、一年間大学院受験のための浪人生活を覚悟していたのに、「お試し受験」がまぐれ当り!そのまま修士課程に滑り込んだ。苗字は当然「伊藤」である。
指導教官は、日教組講師団の一員でもあり、「構造改革派」の旗を掲げていた持田栄一である。私はいきなり「イトージョシ」と呼ばれるようになった。
よくよく考えると、「イトージョシ」は「伊藤女史」である。作家や画家に「女流」という接頭語が付くのと同じ、大学院や大学の教員に女性が未だ珍しかった時代の呼称なのだろう。私がもう少し、女性差別に敏感だったら、「女史なんて呼び方は止めて下さい」と抗議できただろうに・・・私はこの場面でもノー天気だった。
奨学金は支給されてはいたが、やはりそれだけでは足りない。私は、その他に、私立女子高の非常勤講師や家庭教師のアルバイトもこなしていた。
こういう二人の暮らしは、いわゆる「新婚家庭」というイメージからはほど遠い。組合の専従オルグの仕事は、団交(団体交渉)やビラ撒きなど、夜遅くから朝早くなど、「家で食事」というのは珍しい。私も、家庭教師の日は、大抵夜の食事付きだった。朝は朝で、彼は食事抜きで飛び出して行ったし、私は、近くのお義母さんのお店兼住まいに忍び込んで、毎日、味噌汁、納豆とご飯をチャッカリと頂いていた。時に、毎日配達されていたヤクルトから一本失敬したりして、後からお義姉さんに叱られたりもした。
ただ、当時二人が若かったためであろう、セックスだけは律儀?だった。排卵日、受精可能日の知識も正確に学んだし、「危ない日」にはきちんと避妊をしていたので、さすがにこの頃は、「予期しない妊娠」におろおろすることもなくなった。
しかし、一つだけ、生活するようになって分かったこと。それは、彼が信じられないくらいの「生活オンチ=ボンボン=能無し」だということだ。
今では「差別語」として使わないような言葉をあえて用いるが、要するに、身の回りのことに徹底的に無頓着、ということだ。帰宅した後、上着・ズボンなど、脱いだものはそのまま置きっぱなし。ポケットの中の物はすべて机の上にばら撒いて置く。だから、毎朝、出かける時は大騒動。アレ!あれはどこだ?あれはどこ行った?・・・
私は呆れて、その都度、洋服はハンガーにかけてよ!ポケットの物は、この箱に入れて!と言ったり、終いには、三段に重なっている小さな籠を天井からぶら下げて、ハンカチ・チリ紙、定期券、鍵などの置き場所まで用意した。
だが、20年以上身に就いた習性は、簡単には直らなかった。考えて見れば、彼は、私の祖母と同じくらいの母親の末っ子、しかも初めての男の子。一番上のお姉さんは私の母と同年齢。その下にもう一人のお姉さん。父親は早くに亡くなって暮らしは貧しかったようだが、彼は要するに身の回りのことはすべて他人任せ(母親と姉たちに)だったのだ。
初めの内こそ、私もいろいろ口酸っぱく文句も言ったり、改善のための工夫も提案したりした。しかし、途中で諦めてしまった、「こんなに重症なんだもの、仕方ないわ」と。しかも、私もまた、彼の母親やお姉さんと同じように、口では文句を言いつつ、どこかで「仕方のない坊やだこと!」と、他人(夫)の世話を焼く心地よさを感じていたのかもしれない。この後、子どもが生まれ、二人の子どもを抱えた生活の中で、私がどんなにこの最初の「甘さ」を悔やんだことか。
(2)東大全共闘運動の只中で
相手の彼が「全統一労組」の専従オルグの仕事にのめり込んで行ったように、私も東大大学院修士課程でのゼミに熱心に参加した。所属した教育行政専攻の研究室は、教授や助手、そして院生の大半が日本共産党系あるいは民青だった。
私が大学時代に反民青で自治会委員長を務めたことは、周りの人にも大よそ伝わっていたと思う。しかし、その頃は、所属していた構造改革派もいくつかに分裂し、「共青(共産主義青年同盟)」という組織自体も消滅していた。私は意図せずして「ノンセクト」になった。「革命組織」?という縛りから解放されて、私は改めて「自由」になった。革命を目指す組織の一員であるという「自覚」(=縛り)がある時、どうしても他人を「オルグ」するという任務を感じていたからだろう。友人が、ただの友人に終わらずに、出来る限り同盟員に勧誘しなければ・・・と、政治的な任務を自分に課していたのだ。
「ただの一人」になって、私は漸く「革命政党」というあり方に疑問を持ち、「窮屈さ」から抜け出した。そして、その後出会うことになる「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」の、「一人から!」「この指止まれ!」という運動形態に、自ずと賛同するようになっていった。
その意味では、修士課程の2年間は、民青の人とも、社青同(社会主義青年同盟)、ブント(共産主義者同盟)の革マル派、中核派の人とも、もちろん無党派の人とも普通に関わりを持てていた。賛同できる時には賛同し、異議アリと思う時には意見を述べた。
今から思えば、1965年から67年、日本の「左翼」全体にとっても貴重な時代だったのではないだろうか。
修士論文を書いて、博士課程に入った後、偶々医学部の研修医闘争がこじれ、一部学生の安田講堂籠城事件が起こった。その時、教育学部の自治会(民青関係者)は、籠城した学生たちを、「民主的な手続き無視」という理由で非難した。しかし、緊急の問題提起は、とりあえず「一部の人から」ではないのか?「何を主張しているのか」「何を求めているのか」、それをまずは聞くことが先決ではないのか?と私は思ったのだった。私と同じように感じ、考える学生・院生が思いのほか多数であった。にもかかわらず大学当局は、大河内一男総長の下、機動隊を入れて、籠城学生を逮捕し、周りを取り囲んでいる学生・院生たちを排除した。1968年7月、「東大全学共闘会議」いわゆる「全共闘」あるいは「東大闘争」の始まりだった。
この1968年の秋近く、東大全体でも民青系とその他のセクト(反民青)の対立は激しくなり、双方の角材での暴力沙汰も頻出し、教育学部の反民青・非民青の学生・院生は、教育学部の校舎には居られなくなり、止む無く安田講堂内に場所を確保することになった。
私の「結婚」後の暮らしを振り返るつもりであったのに、何とも「東大闘争」の発端に拘ってしまった。ただ、実際にも、私はこの当時、「彼との暮らし」という感覚ではなく、「全共闘」に「ノンセクト」ながら「ラジカル」に関わる日々を送っていたためだったからだろうと思う。
労働運動の現場から、彼には東大闘争がどんな風に見えていたのか、私に直接に聞くこともなかったし、私も彼に丁寧に話した記憶もない。ただ、1969年1月1日、彼が言い出したのだが、親しい友人2人に声をかけて、私と4人、タクシーで東大の安田講堂まで出かけて行ったのだった。私は、元旦の東京の空がとても澄んできれいだったことを覚えている。
その日、「当番」だったのか、偶々安田講堂に詰めていた教育学部の学生が、東大闘争のあらましを、彼と友人二人に話してくれた。帰り道、彼は「あの教育学部の学生の説明、分かりやすかったね」と友人たちと感想を言い合っていた。私自身、彼に伝える事もほとんどなかったのに、何かしらホッとしたことを覚えている。
ただ、その前年の1968年11月22日、東大安田講堂前で「全国・全学生共闘会議」の集会がもたれ、大いに盛り上がったのではあるが、その後、革マル・中核の対立は激化し、夜間だけでなく日中にも暴力が振るわれ、私自身ですら、それら「左翼セクト」に対して疑問符がついてしまった。
また、民青を中心とした「一般学生」による大学当局との収拾策である「東大7学部学生集会」が、69年1月10日に開かれ、「東大全共闘」の行く末は見通せなくなった。かつての「グラムシ的構造改革派」が健在だったならば、「大学当局による学生処分の廃止」「教授と助手、院生、学生の平等化」「医学部研修生の有償化」などを、とりあえずの目標に掲げ、大学当局との交渉を成立させたかもしれない。いや、それすら難しかっただろう。「大学当局による学生への懲戒権の不行使」くらいは獲得できたかもしれないが・・・。
しかし、1月18日、19日、ノンセクトの東大院生・学生は追い出され、各セクトの縄張りで布陣された「安田砦の攻防戦」は、一体、何を残せたのだろうか。その前日、東大正門前で、友人たちとなす術もなくうろうろしていただけの私は、それまでの活力をどこかへ失いつつあったような気がする。
指導教官だった持田栄一とは、学内のゼミが開けなくなった時でも、学外で、共同の研究会「教育計画会議」を開いていた。しかし、加藤一郎総長代行のボディガードを務めていた持田栄一とは、やはり会議の最中でも感情的な対立は止むを得なかった。それでも、彼の人間的な度量なのだろうか、「意見は違っても関係は切らない」という信条ゆえに、私もまた、「教育計画会議」の事務担当の仕事は投げ出さないで続けていたのだが・・・
さて、1969年、東大の入試はできなくなったが、春、そろそろ「正常化」という名の秩序が戻り始めていた。しばらくグズグズしていた私だが、夏を迎えるころ、何と「妊娠」の徴候あり!・・・迂闊だった。困ったなぁ。自分の所為ではあるが、やはり迷い始めた。仕方なく、持田栄一の研究室まで出かけて行って、「妊娠したようです・・・」と弱々しく報告した。どうすればいいか、相談に乗ってくれるかもしれないと、安易に頼っていたのかもしれない。ところが、彼は、即座に「堕ろせ!」と言い放った。「研究者になるつもりなんだろう?ここで子どもを産んでどうする?!」・・・
私も天邪鬼である。持田栄一に「堕ろせ!」と言われた途端に、お腹の中の命に申し訳ないと思ってしまったのだから・・・。
伊藤の彼に、子どものことを告げたのは、それから暫くしてからのことだった。もちろん、彼は大いに喜んだのだが。(続)
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