わたしの脱「テレビ視聴」宣言 -後期高齢者として目と脚を大切に-

著者: 安原和雄 やすはらかずお : ジャーナリスト・元毎日新聞記者
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 前回まで6回の記事は脱原発であった。今回は趣向を変えて、わたし自身の脱「テレビ」宣言としたい。告白すればすでに後期高齢者2年生であり、目と脚にかつての健全さは期待できなくなりつつある。だからここで日常の自分の暮らし方、生き方を考え直したい。
 7月24日からテレビは地デジに変わる。こちらからお願いしたわけでもないし、無造作に受け入れる必要はないと考えた。そこで思いついたのが脱テレビである。テレビとは縁を切って目と脚を大切に有効活用して、日本列島上の自然や四季の美しさと優れた遺産に親しむことを心がけたい。(2011年7月8日掲載)

▽ なぜ脱テレビ宣言なのか

(その一)観たい番組が少ないから
 なぜ脱テレビの気分になったのか。結論を先にいえば、どうしても観たい番組が少ないからである。ここ数年間、私とテレビとの付き合いは、限られている。ニュースのほかは、時代劇ものが中心となっていた。
 例えば「水戸黄門」である。最後に決まって葵(あおい)のご紋の前にひれ伏すという単純な筋書きのどこがおもしろいのかという声もあるが、単純だからいいのである。時代劇を観ながら頭脳を絞るようでは休息にならない。それではひとときを楽しむことにはならない。といっても7月4日第一話が放映された新・水戸黄門はこれまでとはひと味違っている。「人生の応援歌」を意識しているそうで、「苦しみ悲しむ庶民がどう乗り越えて明日を生きていくかを描く人間ドラマにした」(7月4日付毎日新聞)という触れ込みで、おもしろい展開が期待できそうではある。
 もう一つ、「子連れ狼」(再)である。こちらは人生訓が随所に散りばめられており、仏教的思想も背景にある。親子の絆の深さであり、また陰謀に立ち向かう剛胆さは多くの現代人が忘れている世界ともいえる。それだけに魅力あるドラマに仕上がってはいる。
 だが水戸黄門、子連れ狼のそれなりの魅力に背を向けて、未練を捨ててここはじっと「我慢の子」になることにハラを決めた。

(その二)テレビにしがみつくのは健康に良くない
 ある友人の父親のテレビ好きに触れておきたい。晩年は一日中テレビの前に坐って観るのが日課となっていた。しかしテレビにしがみつくのは健康に良くない。第一、一日中テレビと付き合っていると目が悪くなり視力が衰える。あまり外へ出て歩こうと努力しないから、脚が弱ってくるだけではない。一人でテレビと向き合って大声で対話するようになると、危険信号である。やがて認知症にもつながっていく。
その友人によると、明治生まれの両親で、一度は海外旅行に案内したいと考えて、選んだのが中国である。旅行会社企画の香港・広州・桂林の団体観光コースで、親子三人で参加し、一週間の日程をそれなりに楽しんで無事帰国した。

 そこまではよかったが、そのあと友人は愕然とする事態に直面することになる。数日後父親がこう言ったのだ。「この間は韓国へ連れて行ってくれて有り難う」と。中国旅行中、ずっと「ここは韓国」と思いこんでいたのか、それとも帰国してからなにかの弾みで勘違いしたのか、そこは分からない。しかし考えてみれば、東アジアに位置している中国と韓国である。ヨーロッパと間違えたわけではないのだから、十分あり得る誤解か、とその友人はつぶやきながら自分自身を納得させていた。
 これは一例にすぎないが、後期高齢者になってからテレビの前に坐り続けるのは考えものである。

▽ テレビには「自業自得の未来しかない」か

 私(安原)は、一人のジャーナリストとして多種多様な新聞に目を通すようにしているが、その一つ、日本共産党の「しんぶん赤旗」(7月4日付)のコラム「波動」にジャーナリストの坂本 衛さんが<テレビ局は「思考停止」状態>を書いている。その趣旨は以下の通りである。

 総務省発表の「地デジ世帯普及率」は現実からかけ離れている。500万世帯か300万世帯かはっきりしないが、三ケタの万単位の世帯が、地デジ対応を終わっていないのだ。にもかかわらず「10年前の電波法改正で決まったから」という理由だけで、アナログ放送の停止を強行しようとする。テレビ制作者は、何なのだ? 誰のために日々の番組を作っている? 気象情報を担当する者は、100万単位の世帯が自分の番組を視聴できなくなるのに、なぜ心配しない?
(中略)バカとか愚かというのとも違う。ただ漫然と思考停止しているのが、現在のテレビである。今回の地デジ移行が、テレビ放送の没落していく第一歩になると思う。60年に近い期間、自分たちを支えてくれた視聴者をテレビは裏切った。テレビの前には自業自得の未来しかあるまい、と。

 「ただ漫然と思考停止しているのが、現在のテレビ」という指摘が真実なら、これは深刻である。思考停止病ほど組織を蝕む病巣はない。これでは「テレビ放送の没落していく第一歩」であり、さらに進んで「自業自得の未来しかない」となり果てるのも残念ながら時間の問題といえるかも知れない。テレビのために惜しむ気分もにじみ出てくる。しかし私はテレビと縁を切るための手続きをとった。

*NHKテレビ受信料の銀行振替口座は解約済み
 テレビ受信料の銀行振替口座を解約するため、最近最寄りの銀行の窓口へ行った。「それはお客様とNHKとの契約だから、解約はNHKと直接交渉してください」と言われたら、銀行支店長と一戦交えるつもりであった。というのは私の便宜上、銀行に振替口座を開設しているのであり、その口座を継続するか、解約するかは私が決めることと思うからである。窓口へ赴いた結果はどうであったか。
 窓口で「解約したい」と言ったら、担当の女性が「ハイハイ、どうぞ」と所定書類を出して「これに必要事項を記入してください」とにこやかに応対してくれた。ギクシャクすることが少なくないこの世の中、これほど円滑に流れるとは、いささか拍子抜けの形であった。こうしてその場で解約手続きは終わった。

▽ 脱テレビ宣言後、テレビなき日常をどう生きるか

 上述の解約は、もちろん我が家庭の実力派、奥方と話し合いの末、合意に達したことである。さて問題はテレビなき日常をどう暮らし、生きていくか。これは高齢者にとって切実なテーマである。日本人がテレビを楽しむようになったのは私の学生時代だから、半世紀以上にもなる。それほど馴染んできたテレビだから、それに取って代わるだけの魅力ある暮らし、生き方を発見しなければならない。いわば脱テレビ後の生き方再発見であり、その条件として次の三点を挙げたい。そこに共通しているものは後期高齢者として自分の目と脚を大切にしたいという思いである。

 第一は日本列島上の美しさと優れた遺産に親しむこと。
 日本列島各地の素晴らしい自然、四季の変化、その美しさはもちろん、名園、神社仏閣、城に親しみたい。世界に誇るべき優れた遺産を日本人として堪能しないのは、もったいない限りといえよう。親しみ、堪能することによって日本人である自分自身を見つめ直してみたい。一方、海外訪問はもう沢山という気分である。いつ墜落するか分からない航空機に乗って海外にノホホンと出かける勇気は消え失せつつある。そういう意味ではわたし自身、ローカリズム(国内地域重視)派に傾いている。

 第二はクルマに依存しないで、鉄道と自転車と徒歩を主要交通手段とすること。
 日本のクルマの過密度は世界一らしく、狭い日本列島にクルマがあふれている。東日本大震災と大津波の際、クルマのお陰で命拾いした人も多いだろうが、逆にクルマに依存しすぎて津波に呑み込まれて命を落とした人も少なくないと聞く。車の渋滞の中で自分の車を捨てて脱出するのは、その瞬間の決断を求められるわけで、クルマ依存症の人には恐らく困難だろう。日常的にもっと自分の脚を活用したい。大震災後、私はできるだけエレベーターやエスカレーターに依存しないで、脇の階段を利用するよう努めている。

 第三は原則として一人旅とすること。ただし二人旅までは許容範囲であること。
 二人旅あるいは多人数の旅もそれなりに楽しいが、行動の自由を制約されるところがおもしろくない。一人旅といっても、無目的にだらだらと旅を続けるのは好まない。そこには自ずから旅の目的がある。その案内書を紹介しておきたい。例えば『仏教を歩く』(「空海」から「近代の仏教者たち」まで全30冊、朝日新聞社刊)、『名園を歩く』(「奈良、平安、鎌倉時代」から「茶庭」まで全8巻、毎日新聞社刊)などである。これらの案内書は約10年も前に出版されたもので、いつか「歩く」時が来ることを期待して買い求めたものだ。ホコリを払って読み直している。

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年7月8日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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