2015年は憲法に大きな傷を負わせた解釈改憲の年だった。明けて16年は、明文改憲が話題の年となりそうな雲行きである。毎日新聞元日号のトップ記事が、「憲法改正 災害想定『緊急事態条項』の追加から着手の方針」。そして二面に、「透ける『お試し改憲』 緊急事態条項 他党支持得やすく」という解説記事。見出しだけで内容がよく分かる。改憲勢力にとっても、阻止勢力にとっても、せめぎ合いの正念場が近づきつつあるという緊迫感を持たざるを得ない事態なのだ。
毎日新聞の記事は、「安倍政権は、大規模災害を想定した『緊急事態条項』の追加を憲法改正の出発点にする方針を固めた。」「安倍晋三首相は今年夏の参院選の結果、参院で改憲勢力の議席が3分の2を超えることを前提に、2018年9月までの任期中に改憲の実現を目指す」と、断定調。おそらくそのとおりなのだろう。
政権が目指す改憲の内容は、「衆院選が災害と重なった場合、国会に議員の『空白』が生じるため、特例で任期延長を認める必要があると判断した」というもの。このテーマなら、「与野党を超えて合意を得やすいという期待もある」という。
ニュースソースは「政権幹部」。その政治家が、「首相の描く改憲構想を明らかにした」「首相は在任中に9条を改正できるとは考えていない」「首相は自身が繰り返し述べてきた『国民の理解』を得やすい分野から改憲に着手するとの見通しを示した」という。
また、自民党の保岡興治衆院憲法審査会長が「今後は緊急事態条項が改憲論議の中心になる」と報告したのに対し、首相は「与野党で議論を尽くしてほしい」と応じたこともあげ、「衆院憲法審査会では、衆参両院議員の任期延長や選挙の延期を例外的に認める条項の検討が進む見通しだ」ともいう。
もっとも、毎日のこの記事、ややミスリードの気味もないわけではない。実害あって問題なのは、「一時的な私権の制限」が盛り込まれることで、「政治空白の回避策」(緊急事態における国会議員の任期延長)だけであれば、緊急事態条項提案の合理性を当然の前提としているように読めることである。実は「お試し改憲」などと安閑とはしておられない事態なのではないか。この点、大いに警戒を要する。
毎日の報道は、「自民党の改憲推進派は『最初の改憲で失敗すれば、二度と改憲に着手できなくなる』と懸念しており、首相も国会の議論を見極めながら、改憲を提起するタイミングを慎重に計るとみられる」というもの。これは、誇張ではない常識的な情勢の見方だが、このような情勢判断を含む毎日の記事全体が、政権の観測記事であろうということ。産経や読売ではなく、毎日へのリークであることに意味がある。おそらく、政権はこのような記事への世間の反応を見ているのだろう。
毎日の記事では、緊急事態の内容を《「政治空白の回避策」(緊急事態における国会議員の任期延長》と《「一時的な私権の制限」》とに二分し、前者であれば人畜無害の「お試し改憲」、後者なら「実質的な人権制約改憲」としている。
「政治空白の回避策」とは、衆院が解散後総選挙を経ての国会召集までの間に緊急事態が生じた場合、空っぽの衆院が緊急事態に対応できないではないか、という問題提起への対応策。なに、たいしたことではない。半数ずつ改選の参院が空っぽになることはない。二院制の存在理由の一つはここにある。憲法54条2項但し書きの「内閣は、国に緊急の必要あるときは、参議院の緊急集会を求めることができる」を活用すればよいだけのこと。こんなテーマで、ことさら憲法改正の必要があるわけはない。
憲法は、硬く安定しているところに値打ちがある。現行の規定のままでは耐えがたい不都合が生じており、どうしても条文を変更しなければ不都合を解消できない場合以外には、軽々に変更をすべきではない。東日本大震災においても、事態への対応に憲法が桎梏となった事実はなかった。仮にあの事故が解散中のものであったとしても、事情は変わらない。「54条だけでは大規模災害時の国会対応が不十分になる」という立論は、ためにするものとしか考えられない。要するに、改憲の立法事実が存在しないのだ。
自民党改憲の狙いは、もっと実質的な人権制約にある。「自民党改憲草案」(2012年4月)は、現行憲法にはない「第9章 緊急事態」を設けようと具体的な提案をしている。
そのさわりは、以下のとおりである。
「第98条(緊急事態の宣言)1項 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
第99条(緊急事態の宣言の効果)1項 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
3項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、…国その他公の機関の指示に従わなければならない。」
法は「要件」と「効果」で書かれている。緊急事態の要件は、戦争・内乱・政府批判の大行動・自然災害…だけではない。国会で議席の過半数を占めた与党が、「法律の定めるところ」としてどこまでも広げる可能性を残しているのだ。そして、緊急事態の効果。政府の思惑で国民の人権を制約できるのだ。政権にとって、こんなステキな魅力的な魔法のカードはない。
悪名高いヒトラー・ナチスの全権委任法(授権法)は、国会放火事件を口実とする「民族と国家防衛のための緊急大統領令」に続いて登場した、緊急事態に備えての時限立法であった。その第1条「ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる」と、アベ・自民党の「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」の近似性に驚かざるを得ない。
大江志乃夫さんはその著「戒厳令」(岩波新書)の前書きで、次の趣旨を述べている。
「緊急事態法制は1枚のジョーカーに似ている。他の48枚のカードが形づくっている整然たる秩序をこの一枚がぶちこわす」
日本国憲法が形づくる、人権と民主主義の整然たる秩序の体系。これを根底からひっくり返すジョーカーが緊急事態条項なのだ。こんな物騒な緊急事態条項改憲を、危険なアベ政権の手に委ねてはならない。後戻りできない、不可逆的な効果を持ちかねないのだから。
さて、明日始まる通常国会から目を離せない。
(2016年1月3日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.01.03より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=6154
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye3204:160104〕