アメリカの戦争犯罪を直視することが、なぜロシアの侵略を免責しない理由になるのか

――反米主義が反侵略主義を破壊する地点について

 アメリカ合衆国が「戦後の世界の警察官」を自任する過程で、国際法上きわめて問題の大きい戦争を繰り返してきたことは、否定しがたい事実である。ベトナム戦争、2003年のイラク侵攻、さらには中南米や中東での政権転覆工作や経済制裁による民間被害――これらはいずれも、「自由」や「民主主義」という理念とは裏腹に、主権侵害と大量の人命喪失を伴ってきた。

 日本の左派リベラリズムが強い反米意識を内在させてきた背景には、こうした歴史的経験がある。それ自体は理解可能であり、また必要な批判である。アメリカの戦争犯罪を曖昧にしたまま、「西側の正義」だけを語ることは、偽善でしかない。

 しかし、ここで決定的な分岐が生じる。

 アメリカが侵略を行ってきたという事実から、ロシアのウクライナ侵略が理解され、あるいは相対化されるという論理は、どこにも成立しない。

 過去の違法行為は、他の違法行為の免罪符にはならない。国際法は、帳消しや相殺によって成立する制度ではない。ベトナムやイラクの被害者が存在することと、ウクライナの主権と生命が侵害されていることは、論理的にも倫理的にも独立した問題である。

 本来、アメリカの戦争犯罪を厳しく批判してきた立場こそが、ロシアの侵略にも同じ言葉を向けなければならなかった。ところが現実には、「反米」という感情や思考の惰性が、批判精神そのものを歪めてしまった。

 侵略の主体を特定せず、「NATOの挑発」「西側の偽善」「構造的必然」といった説明に責任を拡散させる言説が、左派リベラルの内部から繰り返し現れたのである。

 だが、ここで一つの単純な事実を確認すべきだろう。

 ロシアが侵略をやめれば、戦争は即座に終わる。

 停戦も、和平も、核のエスカレーション回避も、その一点からしか始まらない。この事実を語らずに、「欧州の好戦性」や「西側の非合理性」だけを批判する言説は、結果として侵略行為の継続を正当化する方向に作用する。意図の有無を問わず、それは政治的に無垢ではありえない。

 アメリカの犯罪性を直視するとは、強者の暴力を見逃さないという原理を堅持することのはずである。その原理を、ロシアという別の強者に対してのみ放棄するならば、それは批判ではなく選別であり、倫理ではなく陣営論である。

 反米主義が反侵略主義を破壊した地点において、左派リベラリズムは自らの根拠を失った。いま必要なのは、「誰がより悪いか」という相対比較ではなく、侵略は侵略として断罪するという非対称性のない原則である。

 アメリカの戦争犯罪を批判するからこそ、ロシアの侵略もまた批判しなければならない。

 この単純な原理を回復できない思想は、もはや現実を分析する力も、暴力を抑止する力も持ちえないだろう。

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