「9.11、それはアルカイーダにとってはジハードである。」(ブルマン!だよね氏)
この御指摘に、全面同意いたします。 正しくジハードであったと思います。
氏に依る御投稿を拝見しながら、数十年前のベトナム戦争中に解放戦線が発起した一大攻勢である「テト攻勢」中の米国大使館占拠を思い起こしました。
ベトナム戦争中の1968年1月30日夜に発起された南ベトナム解放民族戦線に依る大攻勢の一環として、旧サイゴン市にあった米国大使館に解放戦線の決死隊が突入して、一時は大使館を占拠したことがありました。 勿論のことに米軍の反撃で解放戦線の部隊は全滅したのですが、テレビで観た戦闘の映像には衝撃を受けました。
大使館の戦闘場面では、米軍の銃撃を受けた解放戦線兵士が蜂の巣にされて倒れて行く場面が映されていましたが、彼等は、それを承知で大使館に突入したとしか思えませんでした。 まるで、自らのベトナム解放の意思を、死を持って世界に訴えるためだけに死に行くような解放戦線兵士の姿に、テレビの画面を凝視しながら長らく無言でいたことを覚えています。
それまでは、多少なりとも米国の影響を受けていたことは確かでしたが、テト攻勢以降は、明確に、ベトナム戦争に関して解放戦線側に立ったことを自覚しました。 否、米国大使館に突入し、米軍の銃撃を受けて倒れた解放戦線兵士が私に訴えていたのです。 祖国を米国の支配から解放したい、そのために自分は死ぬ、と。
軍事的には、解放戦線側には何等の獲得も無く、米軍と南ベトナム傀儡軍の反撃で大打撃を受けて敗退したことは確かであるものの、世界と米国に与えた政治的効果は大きく、テト攻勢を境にベトナム戦争の結末はベトナム側に有利に展開して行きました。 「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」(クラウゼヴィッツ「戦争論」)、とはこのことでした。
ベトナム戦争では、米軍と米国のアジア人蔑視が戦闘状況に観えるようであり、民族的な自身の感情を痛く刺激されました。 それは、帝国陸軍の一兵士として米比軍と銃火を交えた亡父も同じであったようで、テレビ画面に銃創を受けて泣き叫ぶ米軍兵士を観た折には、「腰抜けめ! 貴様のような奴は八連隊には居なかったぞ!」と叫んだことがありました。 亡父は、特に軍国精神を注入された訳でも無かったのでしょうが、比島バターン半島で塹壕前の友軍兵士の死体を敵機関銃に釘付けにされて回収出来なかったことを戦後数十年も経過してからも思い出しては、「あの時は歯ぎしりをした。」と回想していましたので、米軍兵士が解放戦線兵士の死体を塵のように扱うのを許せなかったのか、と今にして思います。
ともあれ、9.11事件の報道が職場で話題になった折に、私が、ふと独り言で漏らしたのは、「アラブもやるな。」でしたので、同僚が皆、私を観たことがありました。