イスラム過激派を育てたのはアメリカ

イスラム断章(3)

西洋のキリスト教社会が中世の暗黒時代に沈んでいたころ、東洋では唐、宋、元、明などの中華帝国の興亡が続き、中洋ではイスラム文化が花開いていた。7世紀初めアラビア半島の一角で、預言者ムハンマドが唯一絶対神アッラーの啓示を受けて誕生したイスラム教は、13世紀までに西はイベリア半島から東はミンダナオ島に至る広大な地域に広がった。しかしその後、ルネッサンスから産業革命を経て近代化した西洋は帝国主義時代を幕開けし、中洋、東洋はおろかアフリカ、ラテンアメリカの大半を植民地支配下に収めるに至った。

20世紀初頭まで中東・北アフリカからバルカン半島まで支配していたイスラム帝国のオスマン・トルコがドイツと組んだ第1次世界大戦で敗北したことにより、この一帯は第1次大戦勝者のイギリスとフランスの植民地ないしは属国となった。第2次世界大戦を経て植民地主義の時代は終わり、中東・アフリカ諸国は1960年代にすべて独立した。しかしナチ・ドイツのユダヤ人大量虐殺というキリスト教社会の抱える「負の遺産」が、イスラエル建国とそれに付随するパレスチナ紛争で欧米側がイスラエルに味方し、アラブ・イスラム側を敵視する姿勢を生んだ。

パレスチナを支援するアラブ陣営対イスラエルの紛争では、1948年のイスラエル建国直後の第1次中東戦争から、世界に石油ショックをもたらした1972年の第4次戦争まで4回もの中東戦争が戦われたが、いずれも欧米側の支援を受けたイスラエルの勝利となった。こうした歴史を通じてアラブ・イスラム側は、占領者ユダヤ人・イスラエルに対する敵意だけでなく、欧米ないしはキリスト教社会への怨念を募らせていった。

イスラエルに勝てないアラブ陣営のリーダー格エジプトが、アメリカ・カーター政権の斡旋で1979年にイスラエルと平和条約を結び、さらにヨルダンが1994年にイスラエルと平和条約を締結するに至り、アラブ側がパレスチナ人民支援のためにイスラエルと戦うことは事実上あり得ないことが明白になった。これが米ソ冷戦終結後の中東の大勢であり、ネタニヤフ首相が率いるイスラエルの右翼政権は、国際的合意に反してパレスチナ自治区の領域であるヨルダン川西岸や東エルサレムにユダヤ人入植地を広げ、ガザへの武力攻撃を繰り返すなど、我が物顔にふるまっている。

こうした現状をイスラム社会の若者はどう見ているか。中世に栄光を担ったイスラム社会は近代以来、欧米キリスト教社会の下風に立たされ続けている。生活に疲れた中年や老人はともかく、若者はじっとしていられない。その怒りが「イスラム過激派」のテロ活動に直結しているのだ。その現代のイスラム過激派第1号を育てたのは、何とアメリカなのである。

1979年末、当時のソ連最高指導者ブレジネフ書記長はアフガニスタンへの武力侵攻を決断した。イスラム国アフガニスタンは19世紀以来、南進する帝政ロシアと大植民地インドを抱える大英帝国との「グレイト・ゲーム」(覇権争い)の草刈り場であった。第2次大戦後英領インドがパキスタンとインドに分離独立して以来、パキスタンとソ連邦を構成する中央アジア諸国に挟まれたアフガニスタンは東西冷戦の中であえいだ末、1978年にクーデターで共産党政権が誕生。翌年共産党系政権が仲間割れを起こしたのをきっかけに、ソ連はアフガンスタンに武力介入してこの国を自陣営に取り込もうとした。

ソ連のアフガニスタン侵攻に不意を討たれたカーター政権のアメリカは、アフガニスタン東隣の同盟国パキスタンに大規模援助を与えるとともに、パキスタン軍の諜報機関ISI(統合情報部)と米国の諜報機関CIA(中央情報局)の共同作業で、アフガニスタン現地にアフガン人青年から成る反ソ・ゲリラ組織を立ち上げた。これに呼応して中東や北アフリカのイスラム諸国から、反ソ・ゲリラに志願する若者が続々とやってきた。中継地パキスタン西部の中心都市ペシャワールは、ムジャヒディーン(イスラム聖戦士)であふれた。

預言者ムハンマドの時代に、イスラムを敵視する多神教の部族と戦うことを「ジハード」(聖戦)、戦士のことを「ムジャヒディーン」と呼んだアラビア語は、1400年を経てそのまま通用した。彼ら聖戦士、現代の言葉で言えば「イスラム・ゲリラ兵」たちは、CIAからたっぷり供与された近代兵器と弾薬を使い、CIAやパキスタンISIの教官たちから現地の状況に合ったゲリラ戦術の教練を受けて戦い、ソ連兵を苦しめた。

このムジャヒディーンの中に、サウジアラビアの大富豪の息子ウサマ・ビンラディンがいた。(読者には「オサマ・ビンラディン」と記憶しておられる方が多いだろうが、アラビア語には「オ」に相当する母音はない。「ウ」に近いアラビア語の音を欧米人がアルファベットのOで表記したのを、日本語でオと訳したためである。)このムジャヒディーンには、石油成金国家のサウジアラビア以下、ペルシャ湾岸の産油国がオイルダラーをふんだんに寄付した。ウサマ・ビンラディンも父親から相続した大金を、対ソ・ジハードに注ぎ込んだ。対ソ・ジハードを通じてウサマ・ビンラディンの名前は関係者の間に知れ渡った。

ソ連軍がアフガニスタンで苦戦している間にブレジネフ書記長が死亡し、さらに老齢の後継者二人が相次いで亡くなった後登場した改革派ゴルバチョフ書記長は1989年、ソ連軍のアフガニスタンからの撤退を決断した。この10年間のアフガン介入戦争の無駄がソ連崩壊の一因になったわけで、ムジャヒディーンは結果として冷戦終結に一役買ったことになる。

アフガニスタンで戦ったジハードに勝利したムジャヒディーンは英雄として帰国したが、それぞれの故国では社会や国家が手厚い待遇をして歓迎したわけではなかった。こうして不満を抱いていた元ムジャヒディーンをかき集めて、ウサマ・ビンラディンが組織したアルカイダであり、アルカイダこそ2001年9月11日に米国を襲った同時多発テロ事件の主犯とされている組織である。

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