イヌワシに思う

著者: 藤澤豊 ふじさわ ゆたか : ビジネス傭兵
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テレビでイヌワシの生態を紹介した番組を二度見た。最初に見たのは日本のイヌワシだった。二つの卵から先に孵化した幼鳥が、遅れて孵化した弟か妹を巣から追い落とす。
二羽育てるには十分な餌がないと判断して、親鳥が遅れて孵化した幼鳥を見捨てるのならまだ分かる。親鳥には経験に裏付けられた知恵があっても不思議はない。まだ孵化して、たいした日にちも経っていない幼鳥に、そんな知恵がある訳がない。番組を見た限りで、それはイヌワシの幼鳥の習性と呼んでいいのいかと勝手に思っていた。

随分経ってから、またイヌワシの生態を紹介した番組を見た。二度目の番組はモンゴル平原に棲息するイヌワシの子育てに焦点を当てていた。モンゴル平原のイヌワシには、日本のイヌワシの幼鳥のように先に孵化した幼鳥による遅れて孵化した幼鳥の追い落としがない。二羽一緒に育ってゆく。

両国に棲息しているイヌワシには種としての違いはない。違いは棲息環境の違いで、要は餌が豊富にあるかないかでしかない。餌が豊富にあれば、今、目先にある餌を相手に取られても、分け与えても、たいした時間もしないうちに次の餌がある(はず)という余裕を生む。目の前の餌を強者に取られ続けても、食べきれない量の餌があれば、弱者にも最低限の餌が回ってくる。人間と違ってイヌワシには蓄財がないから、自身が食す以上の餌を独り占めすることがない。この点では野生の方が弱者に寛容なのか。

棲息するところの違いから、種としての生存に関わるところで、これほどまでに違う行動をとる。というより取らざるを得ないと言った方が適切かもしれないが、行動の違いは餌の豊富さという単純な条件の違いから来ている。この単純な違い、ヨーロッパ人の新大陸入植とその後の社会の発展、そこから今日の両者の違いと重なるような気がしてならない。

ヨーロッパはアメリカ大陸を発見するまで飢えていた。ジャガイモもトウモロコシもトマトも、これなしでは今のヨーロッパの食生活がなりたたないものがアメリカ大陸からもたらされた。新大陸なしでは今日のヨーロッパはありえなかった。
社会全体が大きく成長する可能性もなく、閉塞状態にある社会と、成長が継続してゆくことが必然と思われる社会、前者が日本のイヌワシとヨーロッパの社会、後者がモンゴル平原のイヌワシとアメリカの社会にオーバーラップする。人種としてのありようも同じ-同じ知識や技術、宗教観から社会観に至るまで同じ人たちが、棲む環境の違いによって地域独特の社会を作り上げて行く。

大きな発展を望めない社会では否が応でも限られた富や機会の取り合いになる。人と人との信頼関係があるにせよ、本質はゼロサムゲーム、足の引っ張り合いが日常的になる。何も変わらない人たち-することにも、仕方にもほとんど違いがない人たちが権力闘争と政治的駆引きに明け暮れる。権力者が変わったところで、何が変わる訳でもなく、閉塞状態から抜け出て発展にはつながらない。小さな土俵の上でこっちが上だ、そっちが下だという、遠目にみれば、何も変わらない社会がそのまま続いてゆく。

一方社会が成長をし続けるところでは、富や成功に至る機会も増えてゆくから、足の引っ張り合いより、次の機会を探す方に人々の関心が向かう。小さな土俵の上で上だ下だという争いから抜け出て、別の土俵つくりや探しに、土俵とは違う社会のありようまで含めて社会が変わってゆく。そこでは、どっちが権力を握っても、大して変わらない権力闘争や政治闘争の価値が雲散霧消してしまうことすら起きる。

近視に乱視、そこに老眼の入った目で遠いヨーロッパを見ていると、遠いから見づらいはずの近親憎悪のような政治闘争の影が見え隠れする。近くにあるアメリカではその影が薄くて見つけにくい。あけっぴろげなアメリカ人がその類のことを隠すのに長けているとも思えない。
大きな成長が望めないとこころでは、勢いやることもやり方にも、たいした関心はないが権力はという人たちが、成長し続けると思える社会では社会なり企業なりの新しい地平線を切り開いてゆくことに価値を見出す人たちが合っている。
そこには与えられた環境とその環境に適合したか、しようとする、せざるを得ない生き方があるだけで、どっちがいいの悪いのではないと思いたいし、最後はどっちの方が好きかという人の嗜好かもしれないとも思うが、そうじゃないだろうと思う気持ちの方が強い。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6229:160825〕