インフラの整備は進んだが暮らしは戻らず 福島原発事故から10年の現地を見る

 「インフラ(防潮堤、鉄道、道路、公営住宅など)の整備は進んだが、人びとの暮らしは戻っていない」。東日本大震災で東京電力福島第1原子力発電所が事故を起こしてから3月11日で10年。その前日の10日に被災地の一つ、福島県富岡町を訪れた印象を一言で言えばそのようなものだった。私は2015年以来、毎年、同町を訪れ、復興の模様を定点観測してきたが、今回の訪問は6回目。原発事故が住民にもたらした傷痕はあまりにも深く、真の復興にはなお長い年月と経費がかかりそうだ。

6年前の富岡町
 私の最初の富岡町訪問は2015年にNPO法人が企画した「原発問題肉迫ツアー」に参加することで実現したが、2回目以降は、生活協同組合パルシステム埼玉役員OB会が毎年実施する「福島ツアー」に加わることで続いてきた。が、そのツアーも2020年にはコロナ禍のため中止となった。そこで、今年は一人で出かけた。

 富岡町は東日本大震災で甚大な被害を受けた自治体の一つ。事故を起こした東電福島第1原発から南へ7キロから10キロのところに位置し、大震災では津波に襲われたうえ、原発爆発による放射性物質が降り注ぐというダブルパンチを被った。このため、「全町民避難」を余儀なくされ、町役場も郡山市へ退避せざるを得なかった。

 最初に同町を訪れた時(2015年)の衝撃はいまでも鮮烈で忘れ難い。津波に襲われたJR常磐線の富岡駅は影も形もなかった。駅舎はなく、そこが駅だったことを思わせるものといえば、コンクリートのプラットホームだけだった。文字通り、「消滅した駅跡」であった。プラットホームのわきには、フレコンバッグ(放射能に汚染された草や土などを詰めた黒い袋)が、万里の長城のようにうず高く積まれていた。
 駅前には、津波で壊され、崩れかかった商店や家屋が軒を連ねていた。

 同町内にあるもう一つの常磐線の駅、夜ノ森駅は駅舎の消失は免れたもの、荒れ果てた駅舎は雑木や枯れ草に埋もれていた。
 夜ノ森駅に近い夜の森地区は、見事なサクラ並木で知られる住宅地だが、一戸建て住宅やアパートに人が住んでいる気配はなく、鳥、犬、ネコなどにも会わなかった。まさに、無人、無音のゴーストタウンという感じだった。住宅の一部は、壁が落ちたり、窓枠が外れるなど、朽ち始めていた。

そして、富岡町は今―
 それから6年。富岡駅は新しく建てられた駅舎と陸橋をもつ新駅に変わっていた。ブラットホームのわきに摘まれていたフレコンパックも姿を消し、プラットホームからは、海岸線に沿って新たに建造された防潮堤が望まれた。
 新装なった富岡駅には、列車が発着していた。東京・上野駅と宮城県の仙台駅を結ぶ常磐線は大震災により各所で不通になったが、最も不通期間が長かったのは福島県内の富岡駅―浪江駅間。この区間の不通が解消して、常磐線が全線開通したのは2020年3月14日。この時から、富岡駅の営業が本格化したという。もっとも、駅は職員がいない無人駅であったが。乗降客がまだ少ないからだろう。
 駅前にあった建物の残骸はすっかり取り払われ、その跡でホテルやアパート、公営住宅の建設が進んでいた。ホテルやアパートは、復興工事で働くために町外の各地からやってきた人たちの宿所だという。

 もう一つの駅、あの雑草に埋もれていた夜ノ森駅は新装の白亜の駅に変わっていた。

 町の中心では、新しいスーバーマーケットが開業していた。病院や学校も復旧。郡山市に避難していた町役場も富岡町に戻り、業務を再開していた。
 原発事故で耕作が不能となり、雑草に覆われていた田んぼの一部は、見違えるほどの美田と化していた。放射能で汚染された土を入れ替えたからだった。こうした田んぼでは、いずれ稲作が再開される、と聞いた。また、雑草に覆われていた田んぼの一部は、太陽光発電所となっていた。

雑草に埋もれていた夜ノ森駅は白亜の駅になっていた

放射能に汚染され稲作が出来なくなった田んぼにはソーラーパネルが敷き詰められていた

 これらの見聞は、町外者に「富岡町も復興が進んでいるな」と思わせたが、町内を回ってみると、そうした「明」の部分とは対照的な「暗」の部分も目についた。
 町の一部は、まだ「帰還困難区域」だった。原発爆発による放射能の線量が高いため、いまなお立ち入りが禁止されている区域である。その区域のあちこちに鉄柵とコンクリートのバリケードが築かれていた。
 夜の森地区の住宅街は、朽ち始めていた住宅が取り壊され、その跡に、一戸建ての民家や集合住宅の建築が始まっていた。でも、それは、住宅街全体からみれば小規模で、大勢がそうだとは言えなかった。そして、なんとも不審だったのは、人の気配が感じられなかったことだ。家を立て替えて、そこで一家が暮らしている、という感じを受けなかった。避難先から、たまに自宅に帰るという生活をしている人が多いのだろうか。

 そして、目を見張ったのは、住宅街のわきに、大震災で閉店・退避を余儀なくされたスーパーマーケットやレストランが、みるからに痛々しい残骸をさらしていたことである。これらの建造物の周囲には枯れた雑草が生い茂り、あたりは深閑としていた。
 こうした光景の極めつけは、町を南北に貫く国道6号線沿線のそれであった。
 そこは大震災までは町最大の商店街で、2年半前にここを訪れた時は、6号線の道路沿いにスーパー、レストラン、寿司屋、パチンコ店、ケームセンター、ガソリンスタンドなどが並び立っていた。その多くは壁が剥がれたり、窓枠が壊れたり、雑草に覆われるなど荒廃が進んでいた。あまりの惨状に、息をのんだことを覚えている。
 そして、今。廃墟の多くは撤去されていたが、まだパチンコ店、スーパー、洋服店などの残骸が残っていて、私は思わず、こう思わずにはいられなかった。「ここは東京五輪の聖火リレーが通るところ。復興五輪といいながら、東京五輪までに商店街を復興することができなかったということか」と。

まだ取り壊されず荒廃が進む無人の民家

今も国道6号線わきで残骸をさらすパチンコ店

町に帰還した人は1割に満たず
 それにしても、インフラの整備がかなり進んでいるにもかかわらず、町民の姿が極めて少ないことが印象に残った。なぜだろう。そう思って、町役場の企画課に問い合わせると、こんな返事が返ってきた。「原発事故前の町の人口は1万6000人でした。この人たちが皆、原発事故で避難せざるを得なかったわけですが、これまでに町に戻ってきたのは1500人です。つまり、帰還した人は1割に満たないのです」

 なぜ、こうなのか。東日本大震災以来、避難した人たちへの支援活動をしている里見喜生さん(いわき市、温泉旅館経営)によれば、「故郷に戻りたいけれど、戻れない」からだという。
 「避難先で暮らす人たちは、初めは、早く我が家へ戻ろうと思っていた。が、戻っても、故郷は震災から復興していないから、以前のように買い物をしたり、病院に行くことが出来ない。なら、もう少しにここに居ようと。スーパーが営業を再開したり、病院が診療を再開したりすると、今度は別の事情で戻れなくなる。例えば、子どもたちが避難先の学校になじんでしまって、転校はいやだと言い出したりして」
 「政府の復興政策で一番遅れていたのは、避難した人たちの生活面への配慮でした。避難した人たちの暮らしへの支援をもっとスピードアップしていたら、避難者はもっと早く我が家へ帰れたと思います」

 里見さんは、さらに続けた。「原子力災害が起きた後も、政府は原発の稼働をやめませんでした。新しい政権も、脱炭素を打ち出して原発再稼働を推進しようとしている。そんな現状に見ると、この10年間はいったい何だったのか、と思わずにはいられません」

双葉町はまだ町民全員が避難
 富岡町での取材を終えた後、私は常磐線の富岡駅―原ノ町駅間を各駅停車列車で往復した。途中の双葉駅から、双葉町の町並みを一目見たかったからである。というのは、双葉町は事故を起こした福島第1原発が立地している町で、事故によって全町民約7000人が避難し、いまだに帰還を許されていない町だからだ。
 双葉駅の周辺には、無音の住宅街が広がっていた。そこには、人影が全くなく、開け放たれた窓は一つもなかった。それは、まさに異様な光景だった。富岡町夜の森地区で見たゴーストタウンよりは遥かにスケールの大きいゴーストタウンで、まるで地球とは別の異次元世界に出合ったように思えた。原発を廃止しない限り、こうした世界がこれからもまた出現するリスクを私たちは背負うことになる、と思いながら双葉駅を離れた。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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