エンゲルス・スターリン・毛沢東・廣松渉・降旗節雄―「何じゃあ。このリストは」と思った方も多いでしょう。「理論的低俗性で知られるスターリンと世界最高水準の理論家たる廣松渉を並べるとは何事か」と憤る方もいらっしゃるでしょう。いや、共通性が厳としてあるのです。それは―内容はともかくとして―「わかりやすさ」です。
降旗さんの「わかりやすさ」は定評がありますので、ここでは説明は必要としないでしょう。問題は廣松さんです。「廣松がわかりやすい。あんた何言ってんの。反対じゃないか」と言う方がいらっしゃるかもしれません。でも、はっきり言います。「廣松難解説」はまったくの誤解です。『存在と意味』や『世界の共同主観的構造』などは、確かに難解と言われて仕方がないところがありますが、少なくともマルクス主義関係の諸著作はとても「わかりやすい」と断言できます。「難しい」とおっしゃる方は漢語でできた生硬なヒロマツ語に幻惑されているか、真剣に読んでいないかのどちらかだと思います。あのヒロマツ漢語にビビッて、柳を「幽霊だ」と誤認しているのです。あのヒロマツ漢語を漢字の意義通りに読んでください。そんなに難解なことを言っているわけではないことがわかります。そして、何よりも明快な論理の運びがあります。真剣に読めば、本当にすーっと頭に入ってくるはずです。
これと正反対なのは、ポスモ系の著作です。降旗さんは「わかりきったことをわざと衒学的な言葉で語っている」と言っていましたが、まさにその通りだと思います。「ソーカル事件」でそのことが暴露されてしまいましたね。彼らは「人に読んでもらい理解してもらう」という、書き手にとって一番大切なことを放棄しているように思われます。「文章が理解できないのは読み手のせいじゃなくて、書き手のせいである」―至言ですね。「中学生にもわかる文章を書く」―自戒の言葉としたいです。
ただ、「文章が理解できないのは読み手のせいじゃなくて、書き手のせいである」―この格言の例外じゃないかなと、いつも思っていたのはヘーゲルです。私には読破をギブアップした本が二冊あります。一つはヘーゲル『精神現象学』で、もう一つはレーニン『唯物論と経験批判論』です。前者はもちろん超難解さのため、後者はあまりの退屈さのためでした。『精神現象学』が理解できないのは自分の読解力のなさだとずっと思いこんでいました。ところが、ある時こんな話を耳にはさみました―花崎さんが大学院生の時『現象学』を読んで「自分は頭が悪いのかもしれない」と悩んだというのです。「あの花崎さんが」と思うと私はやや安堵しました。そして、「『現象学』が理解できないのは自分のせいじゃなくて、ヘーゲルのせいである」と思うように・・・。いやいや、やっぱり私のせいでしょうが。
追伸です。ブルマンさんへ。
私は、マルクスを「神様」だとは思っていませんが、「資本はG―W―GΔという運動体である」というマルクスの見解だけは、他のどの経済学派の資本概念より優れていると思っています。では、「何の運動体か」というと…。次のような「回答」が頭に浮かびました。
「資本は価格の運動体である」、「資本は交換力の運動体である」、「資本は流動性の運動体である」、「資本は貨幣の運動体である」
最初のは、まったく意味不明。後の二つは、日本語として不自然。最後のは、まあ意味は通じるがどうもしっくりとは来ない。やはり「資本は価値の運動体である」と言えばすっと納得ができる。少なくともこの言葉を使えば便利であるというのは間違いないでしょう。
ブルマンさん、他に何かいい表現があったらご教授ください。