キャロライン・ケネディは何にうたれたのか ―原爆謝罪なしに戦後は終わらない―

著者: 半澤健市 はんざわけんいち : 元金融機関勤務
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《長崎を訪れた米大統領の娘》 
 大統領の兄弟がテロリストに暗殺された米国から、女性大使キャロライン・ケネディが赴任してきた。日本のメディアは、彼女を「知日派」どころか「親日派」とさえ呼んで、歓迎一色である。彼女の母国は民主主義のチャンピオンと呼ばれている。同時にその国は第二次大戦以来、一番長く一番大きな戦争の主役であった。いや、あり続けている。その軍備は、米以外の世界の、おそらく200ほどの国と地域の、全軍備よりも多い。

キャロラインは若い日に広島を訪れている。今度は大使として長崎を訪れた。献花して死者を追悼し原爆資料館を訪問した。新聞は、彼女が「深く心を動かされる体験を与えてくださったことに対し、原爆資料館と長崎市民にお礼を申しあげたいと思います」(記帳文の一部)と書き、植樹式のあと「長崎が世界の相互理解に向け、先頭に立ってきたことに感謝したい。日米友好の木が大きく育ってほしい」とスピーチしたと伝えている(『東京新聞』、2013年12月10日・夕刊)。

《「うたれた」とは異なる「怒り」》
 彼女は「何に対して、どのように、ううたれた」のか。その答えはだれも報じない。
日本人の原爆観には、「悲しみ」だけがあって「怒り」がないと、私はずっと思ってきた。
その怒りは、先ず投下した者に対する怒りである。次に落とされるまで「いくさ」を止めなかった者への怒りである。遂には、そういう「いくさ」を始めた者たち―それは一握りの選良と盲従した大衆とであるが―に対する怒りであり自責の念である。これがとけない限り悲しみも終わらない。

米国の原爆投下は、米国の外交・政治の文脈にあって「より多くの犠牲者の防止」のための必要な行為として正当化されてきた。キャロラインの使命の一つは、米大統領の広島訪問であるとメディアは予測している。一体、1945年には正当化された「原爆」が、今はなぜ「核」廃絶の対象になるのか。非人道的で許すべからざる兵器だからである。

《個人的な怨みは一片もないが》
 中国や韓国から戦争加害への謝罪を求められると、日本人の多くは「何度謝ればいいというのか」と反発する。そういうのであれば、原爆資料館を見物して「深く心を動かされる」とだけいうのを知って平然としているのは二重基準である。バラク・フセイン・オバマが、謝罪なしに原爆投下都市を訪れるとすれば、そこに表現されるのは、加害者の奢り、被害者の屈辱だけではない。それは彼らの信ずる神への冒涜の表現となるであろう。

キャロライン・ケネディに対して個人的な怨みや怒りなど一片もない。しかし上述のようなオバマ訪日の水先案内人にはなって欲しくないのである。安倍晋三は決して言わぬであろうから、一市民として書き記しておく。原爆投下への謝罪なしに戦後は終わらない。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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