キューバと北朝鮮そして「国家資本主義」について《足元から出来る貧者の知恵の連携?》

(1)キューバと北朝鮮

医療機材整備に12億円=日・キューバ首脳会談

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160923-00000017-jij-pol

一週間の予定を消化しつつある。

そこで零れ落ちている問題点を書き留めておきたい欲求がある。

しかし、時間は無情である。

25日(日曜日)

キューバ友好の集い

https://chikyuza.net/archives/66555

10月2日(日曜日)

社会主義理論学会 第72回研究会「キューバの経済と社会:社会主義モデルの変革の現状と課題」

https://chikyuza.net/archives/66502

と続くのであるが、10月は、私情が詰まっているので残念ながら行けそうもない。

フセインが暗殺され、ガタフィも葬り去られ、残ったキューバと北朝鮮の動向は、注目すべきものがある中、まずは、一見、反共主義者である安倍晋三首相のキューバ訪問は、北朝鮮の孤立化を画策したものとの話も出ているので要注意である事が頷ける。

キューバ、ゲバラ、カストロの人気は、ロックスター並のものがあり、20世紀最後の砦の様なものとも好意的に記憶が保存されている。

アメリカにとっては、最後の目の上のたん瘤でありながら「懐柔」し、言いくるめていきたい最後の砦であると言っていいだろう。

今だに硬直路線の中にある北朝鮮との対比と北朝鮮孤立化政策に対して、中国、ロシア、キューバは、反帝国主義、反アメリカ主義に対して、最後の「歴史的段階」が迫っているのを感じているわけである。

故に、今回の25日だけとなってしまったが、「キューバ友好の集い」には、興味が尽きない。

決して、安倍政治外交の二番煎じになってはいけないだろうと感じている。

(2)国家資本主義とは何か?

ソビエト東欧とドミノ倒しが、やがて、中国、北朝鮮にも及ぶであろうと予測されて久しいのであるが、現行、そこに至ってはいない。

それは、池上彰氏が述べている様に、日本人の主権者、大衆、市民にとっても幸運なことであり、その絶妙な調和の中で、極端な格差、切り捨て政策、戦前化する支配から免れているからである。(免れて来たのだ)

資本主義搾取が、極端化しなかった「福祉政策」「ケインズ主義」「ゆりかごから墓場まで」の労働者階級の極端な反体制行動を押しとどめてきたのは、ソビエト革命などの一連の社会主義国の存在であり、福祉政策を取らざる負えなくなった恩恵を手にしたのは日本や欧州の労働者たちでもあったのだが、ソビエト崩壊後、再び、それは、手放されたと「池上彰の経済教室」でさえ説明されている周知のものであり、この視点を忘れるべきではない事、しっかり、理解していなくてはならないのは、当然であるだろう。

新自由主義、TPP、憲法改悪の危機の中で、再び、貧困格差戦争法と言う流れが、日本、アジア、そして、世界の危機として、対峙している中でのしっかりした理論武装を広報しなくてはならないのは、「ちきゅう座」「オールジャパン〔平和と共生〕」ばかりとなっていはいるのだが歴史的問題点であると考えている。

時間がなかった故に、指摘が出来なかったのであるが、

9/24現代史研

https://chikyuza.net/archives/66418

昨日、土曜日のこちらの研究会にて、マルクス研究で名高い内田先生の論で、手放しの中国批判的言説に頂けないものを感じていた事を是非、告げておきたいと思ったわけである。

「中国は、社会主義とは言い難い、国家資本主義である」

この問題だけを抽出する事は、前回の「レーニンへ帰れ」の親睦会にての朝鮮戦争批判、北朝鮮批判に通じるものがあったと感じている点である。

絶妙なる歴史的調和の中で、福祉政策、われらの自由が勝ち取られている事は、上記で書きだしたる「池上彰の経済教室」の中でも語られているものであり、その均衡と知性が、格差によって貧困によって奪い去られているが故の現在の問題、日米地位協定と高江問題、築地市場政官業権力の腐敗、26日からのTPP国会の緊張がある事について、理解され、わかり易い広報としての研究会になっていなかったのが残念でならず、「レーニンへ帰れ」にて陥っていた抽象性、観念論的概念の内側の展開となって「現代的焦点」としての広がりとして行けずにあったのが実践的でもマルクス的でもなく先祖返りする要素が、支配的な窮屈さ、アソシエやちきゅう座らしからぬ不満を感じていた。

中央公論社より出ていた『世界の名著31 アダム・スミス』大河内一男氏の冒頭の解説にも戦前の風潮、赤狩り的風潮があり、マルクスが扱えない故に、代行として、スミスからリカードオを取り扱っていたとある。

その意味での「積極的スミス」論となっていなかった不満、「現代との対話」としての池上彰の経済教室的でもなく、ヘーゲルについても同じ限界内に留まっているのは、どうしてなのだろうか?

まさに、改憲勢力3分の2の全体主義的TPP支配が、そこにあるが故の雰囲気であるのかと息苦しく感じていたのは僕だけではないのではないかと感じている。

是非、本日の「キューバ友好の集い」も安倍晋三政治に臆するなくお願いしたいものだと祈るばかりである。

それ程に、反知性、貧困と格差、戦争法の足音「軍靴の響き」は、日本政治に陰を落としているのだと事あるごとに、訴えなくてはならないのではないかと感じているわけである。

ヘーゲル自身の講義は、あまりうまくはなく、大部分は弟子たちが請け負っていた?

ヘーゲル研究の刷新と共に、「現代哲学との弁証法」を日本語体系の中で、再び、死者の為ではなく、共生する生者同胞へと言うのが、共和制定理として展開する事をマルクス論の前景として仕上げたい欲求は当然あるでしょう。

立ち止まってはいられないのでみなさん、協力して頑張っていきましょう。

ヘーゲル講義録研究

http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15074-6.html

簡単ですが今回はこんな感じで。

足元から変えられる日本の貧困対策と提言的連続性としての一週間の粗描?

終り。