大阪の塚本幼稚園の児童が軍艦マーチを奏でている映像を見た。若い女性の先生が溌剌と指揮していた。ドラムを叩いている子供が前の方に立っていた。それを見ていると「ブリキの太鼓」という小説が思い出された。作者はドイツ人のギュンター・グラスだ。第二次大戦前夜のポーランドの港町ダンツィヒがナチズムに染まっていく時代をブリキの太鼓を叩く超能力使いの少年を主人公に描いた物語である。舞台をバルト海に面したダンツィヒに設定したのはグラスがこの町で生まれたからだった。ダンツィヒは自由都市だったが、ドイツ人が多く、ナチスが台頭した頃は景気のよいナチスにあやかろうという空気が醸成されたのだった。
「ブリキの太鼓」は1959年に世に出た。同年、日本人として最初にグラスと対談し、記事を日本の文芸誌に寄稿した岩淵達治氏によると、この小説はドイツで戦後「最初の」小説、という風に受け取られたと言う。それまでに小説が書かれなかったのではなかった。いくつも書かれていた。しかし、グラスの「ブリキの太鼓」によってはじめて、ドイツの作家は想像力を自由に使って筆を動かせるようになった、ということらしい。つまり、それぐらいドイツ人にとってナチズムの過去が重くのしかかっていた。本来、想像力を自由に使うべき作家と言えども歴史の重力から自由に飛翔できなかったというのである。
ギュンター・グラスは「ブリキの太鼓」で軍楽隊の少年オスカルが大人になることを拒否する、という発想を取り入れた。大人になることを少年が自ら拒否する、というアイデアは奇抜だったが、ナチズムに対する反旗とも言えるのではなかろうか。だからブリキの太鼓の叩き手である少年はその後、成人を過ぎても身体的には子供のままなのである。そして、超能力でガラスのコップを割ったりすることができる。一種の魔術的なリアリズムという手法、シュールレアリズムによって、グラスはナチズムに染まっていった人々の歴史にペンを入れることができた。そればかりではなく、自らも軍国少年だったグラス自身のナチズムにもメスを入れることができた。
それはグラスがもともと美術家だったことと関係しているように思う。軍国少年で自らも兵隊だったこともあるグラスは戦後、再生する時に、美術大学に進んだ。ドイツではナチズムの間、つまり1933年から1945年まで芸術作品もナチスの管轄におかれ、ナチズムの芸術様式が称賛される一方、個人の内面を重視した表現主義などの芸術家は一掃されていた。戦後、ナチスの崩壊とともに、抑圧されていた芸術家たちが活動を再開していた。グラスが美術を学んだのもそういう戦後の美術の再生の時期だった。グラスが自由にペンで想像力を飛翔させることができたのは美術家だったからではなかっただろうか。なぜならナチズムも、あるいは平和主義も第一義的には言葉の世界だからだと思う。
ナチズムは言葉を奪い、言葉を抑圧し、言葉を攻撃し、言葉を破壊した。だから、戦後になってもその大きなダメージによって、すぐにはドイツ人は自由になれなかったのだろう。
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