コロナ感染の危機を、民主主義の危機にしてはならない。

著者: 澤藤統一郎 さわふじとういちろう : 弁護士
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新型コロナウイルス感染をめぐる世の雰囲気が、尋常でない。昨夜(3月25日)、小池都知事が緊急の記者会見を開き、現状を「感染爆発の重大局面」と表現した。「このままの推移が続けば、ロックダウン(都市の封鎖)を招いてしまう」とも言った。唐突な説明に、違和感を禁じえない。

私は、安倍も小池もまったく信用していない。安倍や小池が何かを言えば、まずはウソだろうと否定する。ウソとまでは思わぬ場合にも、裏があるだろう、どんな思惑でしゃべっているのだろう、引用のデータはおかしい、と身構える。眉に唾して聞かなければならないという、その姿勢が間違っていたことはなく、確信に揺るぎはない。

このような時期に、このような政治家しか持ち合わせのない日本の民主主義を心底情けないと思う。コロナ感染が本当に危険なら、何を今さら、オーバーシュートだのロックダウンなどと言い出したのか。オリンピック開催の強行に差し障りがあるからとしてこれまでは感染の危険性を過小に発表して騒がないようにし、オリンピック延期やむなしとなったとたんに権力を振り回す。安倍も小池も、国民からそう見られることを、不徳の至りとして甘受しなければならない。

こんなときにこそ、あらためて肝に銘じておきたい。人権や民主主義の危機は、常にもっともらしい理由を伴って登場する。ブレない醒めた理性が必要なのだ。「非常事態」を口実とした立法権の行政への白紙委任を警戒しなければならない。

ウィルス感染蔓延の防止という、容易には反対しがたい名目での権力の万能化が企図されている。軽々にこれを許容してはならない。「信頼は常に専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。」という民主主義の原点をこういうときにこそ、思い出さなければならない。

議論の出発点となつているデータが信用しがたい。毎日、いったい何人の検査を行ったのか。そのサンプルはどうして選定したのか。感染死者数は、どうして確定しているのか。肺炎死者やインフルエンザ死者の中に、コロナ感染死がないことは確認できているのか。結局は、PCR検査の受診者をどう選定するか次第で、感染者数も、重症者数もコントロールされているのではないか。蔓延している疑問に誠実に答える姿勢に欠けているのではないか。

さらに、述べておきたい。いかなる場合にも、議会を無視した行政府の専横を許してはならない。行政が非常の事態だからとして人権を制約しようとするときには、納得できる根拠を国民に示してその同意を得る努力をしなければならない。コロナ感染症についての疫学的基礎データの徹底した情報公開と国民への説明によって、採ろうとする方策への積極的同意を獲得しなければならない。それなくして、感染症蔓延防止に成功することはあり得ない。

哀しいかな、嘘とごまかしにまみれ、国民からの信を失った安倍晋三政権である。自分ファーストに徹して都民の支持を失った小池都政のやることである。国民・都民の積極的同意を得ることは、たいへんに困難であることを肝に銘じて、これまでとは違った真摯な姿勢でことに臨んでいただきたい。
(2020年3月26日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2020.3.26より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=14567

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

〔opinion9581:200327〕