コンプライアンスと報道倫理

 犯罪捜査の対象になっている人物に警察の捜査情報を漏らすことが何を意味するか、ことの重大さは小学生にだって理解できる。まして報道を仕事にする人間なら、それが職業倫理に反する致命的な行為であることを、人に教えられるまでもなく分かっているはずだ。大相撲の野球賭博をめぐる事件で、警視庁の家宅捜索の情報を事前に親方にメールで知らせたというNHK記者の行為は、なぜ、といぶかる前にあきれるほかない。

 これが記者個人の倫理観の欠如によるものであることは言うまでもない。が、こうした記者を記者として使ってきた職場や組織に問題はないのか、ひいては日本のジャーナリストたち全体に共有されているはずの職業倫理に問題はないのか、つい心配が膨らんでしまう。

 判断の基準が逆転

 NHKの報道局長はこの問題を公表した記者会見で、記者の行為が「コンプライアンス上、きわめて不適切であり、報道倫理の上からも大きな問題がある」と語っていた。おそらくこれがNHKの考え方を代表するものと思われる。しかし筆者にはこの説明に強い違和感がある。

 「コンプライアンス」はNHKの「倫理・行動憲章」に基づく「行動指針」のなかで「法令・職場規律の遵守」と定義されているという(『朝日新聞』10月9日)。報道局長の発言では、当の記者の行為は「法令・職場規律の遵守」の指針に照らして「きわめて不適切」だったということが一義的に問題であり、それを補強する意味で「報道倫理の上からも大きな問題」が付け加えられた形になっている。これは、問題を判断する基準の軽重が逆転しているのではないか。

 本来、報道の仕事に携わるものが守るべき職業倫理は、一企業内の行動指針や法令・職場規律などとは別に厳としてあるもので、行動指針などの有無に関わらずジャーナリストとして守らねばならない基本原則のはずである。その原則を踏みにじったこの記者の行為は、NHKの内部規定を守ったかどうか以前に、記者として恥ずべき行為と批判されるべきだろう。

 報道局長がこれをまず「コンプライアンス上」の問題としてとらえているようでは、NHKの現場の記者たちの間で、報道活動の根幹に関わる報道倫理がどのように理解され実践されているのか、非常に心もとない。

 生かされなかった?教訓

 2008年1月、NHKの職員3人が勤務時間中にインサイダー情報を基に株の売買をしていたことが明るみに出て批判を浴びた。このときNHKはやはり「コンプライアンスの徹底」を口にして規律の引き締めを約束していた。さらにその前、職員のカラ出張や経費のつけ回しなど不祥事が相次いで伝えられたときも、「コンプライアンス」というあいまいな言葉が飛び交った。

 企業人が企業の定めた規定や職場の規律を守ることはむろん重要だ。が、企業人である以前に、社会人、市民として誰もが守るべき社会規範に従わねばならない。報道に携わるものは、それに加えてさらに厳しい職業上の規範、倫理を守るよう求められている。それに従うことは企業内の約束ごとを守ること以上の重みを持っている。

今回の記者の行為は、NHK内部の「法令・職場規律」を破ったかどうかの問題ではなく、ジャーナリズムの基本原則にもとる行為であったということに尽きる。その点を踏まえてことに対処しないと、NHKは問題の本質を見誤り、この問題が提起した教訓を見失うことになるだろう。

 思い起こされるのは、10年前にやはりNHKの記者が引き起こした、報道倫理に関わる出来事だ。2005年5月、当時の森首相がいわゆる「神の国」発言で窮地に立っていたとき、釈明の記者会見をいかにうまく乗り切るか、首相あてに助言のメモを書いたとされたのが、NHKの首相官邸担当記者だった。取材記者が取材対象に会見の進め方を入れ知恵するなどというのは、明白に記者の倫理に違反する。「首相指南書事件」として知られるこの事件で、NHKは記者の関与を否定し、疑惑を強引に握りつぶした。

 10年後、NHKが記者による捜査情報漏洩の事実を公表したことは、それなりに報道倫理をめぐる現場の意識が改善されたことを示しているとも言える。しかし10年前の苦い経験から得た教訓が、単に「コンプライアンス」の徹底で終わったとすれば、教訓が十分に生かされているとは思えない。

 自ら省みる謙虚さを

 新聞は今回のNHK記者の問題を大きく、批判的に伝えた。『朝日』『毎日』『産経』などは社説でも取り上げ、「報道の信頼揺るがす愚行」を非難するとともに、こうした事態を招いた背景をきちんと検証するようNHKに求めていた。

 しかし現場の記者がこうした「愚行」を引き起こす恐れはNHKだけのものかどうか。新聞の現場では記者に報道倫理がしっかり浸透しているのかどうか。おそらく新聞も、NHKだけに反省や検証を求めるだけでは済まないはずである。

 日本のジャーナリズムの歴史に残る汚点とされた「首相指南書事件」は、実はNHKだけの問題ではなかった。NHK記者の関与が明白に疑われていたにもかかわらず、当時の首相官邸記者クラブは真相を解明しようとはしなかった。報道倫理の基本原則を踏みにじった行為を目の前にしながら、事実を確かめ責任を追及することを避けたのである。その不作為の責任は記者クラブに所属するすべての報道機関に帰せられる。

 報道倫理に関わるあれだけの不祥事を不問に付し臭いものにふたをしたことが、どれほど報道に対する市民の信頼を揺るがせたか、報道各社が真摯に反省した跡はうかがえない。その後の10年余、当事者であったNHKはもとより、報道各社の間でも「事件」を検証したという話を聞かない。

 今回の情報漏洩問題で、新聞が記者の行為を批判しNHKに反省や検証を迫るのはいい。しかし新聞の側にも「首相指南書事件」の扱いのように、報道倫理をめぐって誇れない過去があることを忘れないでほしい。他を批判するなら、まず自らの過去を省みる謙虚さを持ってもらいたい。

 公共の利益優先する姿勢

 いまあらためて見直すべき問題は、記者の基本的な職業倫理を現場のジャーナリストたちにどう徹底させるか、だろう。記者としてすべきこと、してはならないことを企業の内部規定や行動指針として守らせることもむろん大切だ。しかしそれを守ること(「コンプライアンス」)だけを記者に押し付けて事足れりとする空気が職場にあるとすれば、今回のような問題が繰り返される心配が多分にある。

 いま必要なのは、職業としてのジャーナリストに求められる責任、より高い倫理観を身につける機会を、現場の記者に与えることだ。報道倫理の基本を学ばせることだ。それは社内研修の形でもいいし、外部での研修・教育の形でもいい。仕事を通じて優れた先輩から学べるなら、それもいい。ただいずれの場合も、形だけのおざなりな研修や教育にしては意味がない。

 日本ではほとんどの記者がいずれかの企業に所属する。企業人として、企業の利益、立場を無視することは難しい。しかし記者の職業倫理は、企業の利益より前に公共の利益に奉仕することを記者に求めている。報道に携わるものの倫理が一般の社会人の規範・倫理より一段と厳しい理由もそこにある。

 日本のジャーナリズムはしばしば、自社の利益や立場を優先させがちな「企業ジャーナリズム」と批判される。ジャーナリストはなによりも公共の利益を重視する職業だという考え方が、現場の記者の間に十分に定着しているとは言い難い。報道倫理より「コンプライアンス」が先にくる姿勢のなかに、それが象徴的に表れている。

初出:新聞通信調査会『メディア展望』11月号(第586号)の「メディア談話室」より許可を得て転載

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