サケは誰のものかーサケ漁をめぐる法廷闘争はアメリカに先例

著者: 澤藤統一郎 さわふじとういちろう : 弁護士
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「浜の一揆」訴訟を受任して以来、サケに関心をもたざるを得ない。サケの切り身の味も変わってきた…ような気がする。サケの生態やサケ漁の話題を追って、佐藤重勝著の「サケー作る漁業への挑戦」(岩波新書)を読んでいる。やや古い(1986年)著作だがとても面白い。

この書のなかで、「サケは誰のものか」という問いかけが繰り返される。自然の恵みであるサケは、誰のものだろうか。著者の結論はこういうことだ。
「サケは、とる人だけのものでなく、地域社会のもの、みんなのものであり、地域社会全体のものとして殖やすのが、サケを殖やす途だ」

民事的な所有権の帰属を論じているのではない。社会や行政がサケとどう関わるべきかという原則論を述べているのだ。私も、まったく異存はない。というよりは、我が意を得たり、という感想だ。

興味深い幾つかの実例が紹介されている。たとえば…。
「岩手県津軽石川のサケ漁について、元禄9年(1696)から20年ほどの事件を記述した『日記書留帖』には、こう書いてある。川にさけが急にのぼるようになったため、その漁獲をめぐって、毎朝村中が喧嘩していたのが、当時の領主であった津津石一戸氏の耳に入り、『とにかく思いがけず上ってきたサケであるから、誰のものというわけにはいかない』という裁定が下された。村では、漁業権を村民の持高に応じ、村役人から水呑百姓にいたるまで細分して割付け、地付支配を仰せつけられたという。(略)
 これによれば、サケは地元の『総有』、つまり“みんなのもの”という形で、領主に上納金を納める形であったことがわかる。」

封建領主でさえ、サケを一部有力者のものとはしなかった。「地元の『総有』、つまり“地元民みんなのもの”」と観念し、具体的にサケの取り分を「村民の持高に応じ、村役人から水呑百姓にいたるまで細分して割付けた」という。当時から、「サケは地元民みんなのもの」と考えられていたというわけだ。

「サケは誰のものか(米国の場合)」という一節がある。
「米国で…ヨーロッパから渡来した白人が、現地人であるアメリカ・インディアンからサケをとる権利を奪ってゆく様子は、ブルース・ブラウンの『雲の峰鮭の川』(池央耿訳、昭和59年新潮社刊)にくわしく書かれている。

 1912年、白人入植者が、クゥィリュート族の保留地からクウィラユート川を1キロ半ほど遡った支流の川尻に、サケ缶詰工場を建設した。そしてサケをとりまくった。インディアンの抗議は、この川の権限は陸軍省に属するという口実でしりぞけられ、彼らは川とサケを奪われた。
 その後、間もなく、ワシントン州議会は、サケ漁業者はすべて州から鑑札を受けなくてはならないことを法制化した。そしてインディアンは合衆国民ではないという理由で、彼らに鑑札を交付することを拒んだ。
 これでインディアンたちは、完全にクウィラユート水系から締出されることになったが、さすがにインディアン保護局がみかねて、州の法律施行に「待った」をかけた。しかし、彼らへの圧迫はなおも続けられたので、彼らは早い時期にこれを、権限のより大きい連邦裁判所に持ちこむ戦術をとった。1946年、裁判所はインディアンの権利を認める判決を下し、彼らは限られた範囲ながら白人の手から漁場を奪回した。裁判所は、ラ・プッシュの保留地、2・6平方キロの内で、この川を管理する権限を全面的に認めた。

 

しかし、保留地を一歩出れば、州政府の締めつけは厳しかった。同じようなことが、米国とカナダのいたるところで起こっていたが、インディアンを漁場から一掃しようとしたのは、ワシントン州が最初であった。こうして州対インディアン7部族に代わった連邦裁判所の裁判がはじまる。そして、3年間の論戦の後、合衆国地方裁判所判事のジョージ・ボルトは判決を下した。
 まず彼は、サケ資源減少の原因はインディアンの無軌道な乱獲であるという州側の主張をきっぱりとしりぞけ、インディアンたちが当然の権利によってサケを確保するために、ワシントン州に対し、条約を結んでいる部族が古来の習慣にしたがってサケやスチールヘッド(ニジマスの降海型)をとれるよう、漁獲量の50パーセントをインディアンに譲ることを命じた。」

この記事を読んで嬉しくなった。「おれたちにもサケを獲らせろ」という裁判の先例はアメリカにあったのだ。まずは、クゥィリュート族の提訴。そして続いた先住民7部族対ワシントン州の訴訟。いずれも、先住民側が勝訴したのだ。訴訟の詳しい内容は分からない。しかし、州政府は「サケ資源減少の原因はインディアンの無軌道な乱獲である」と主張して敗れたのだ。資源の保護培養を通じての漁業の持続性が争点となった訴訟であったようだ。先住民の勝訴、州の敗訴が嬉しい。

しかし、問題はこれで終わらなかった。
「この判決にもかかわらず白入漁業者は増えつづけ、1975年には、州魚類狩猟局は、インディアンは州のふ化場が育てた魚をとる権利はないという理由で、インディアンがスチールヘッドをとることを禁止した。この年の6月、第9回巡回控訴裁判所は、ボルト判決を全面的に支持する判決を下した。」

サケの孵化場が出てきて、孵化事業がインディアンをサケ漁から排除する理屈にされたのだ。「浜の一揆」訴訟と、ますます似てきた。そして、ここでも、先住民側が勝訴している。

「しかし、白人漁業者の違法操業は続いた。こうして紆余曲折をへながら、ボルト判決は、ワシントン州で徐々に効果をあらわしはじめた。年々インディアン各部族の水揚は増加して、州全体の20~35パーセント、時には50パーセントを上廻るサケが、インディアンの手に渡るようになった。それにもかかわらず、ピュージェット湾岸の一部のインディアンの漁獲量が事実上ゼロになる事態が発生した。1977年、合衆国が200カイリ法を宣言すると、商務省は、日本への輸出のため増えた需要に応じて、トロール船団にギンザケとマスノスケをとりたい放題とらせた。1980年には、ホー族のインディアンは、1尾の秋サケにも恵まれなかったという。つまり、船団はギンザケをとりつくしてしまい、産卵のためホー川を遡るギンザケはいなくなってしまったのである。ホー族は、商務省を相手に提訴した。1981年、ホー族は勝訴したが、肝腎の資源はそれによって減少がくいとめられるものではなかった。」

先例としての教訓に満ちている。訴訟が万能でないことは明らかだ。資源保護のための施策が不可欠なのだ。

ひるがえって、公的資金による孵化事業が軌道に乗っているわが国の今、サケは“生産者・消費者を含むみんなのもの”という根拠はより強くなっている。みんなのものであるということは、特定の事業者にサケを独占させてはならないということであり、地域・生産者・消費者・行政をあげての資源の保護育成が必要だということなのだ。定置の業者にサケ漁を独占させる合理的な根拠はありえない。

あらためて思う。幕府と松前藩は徹底してアイヌを弾圧して彼らのサケ漁の権利を取り上げたが、アメリカは訴訟で先住民の権利を認めたのだ。明らかな、文明度の差と言えよう。アメリカ先住民の怒りを共有する心意気で、三陸沿岸の漁民も法廷闘争を勝ち抜きたい。
(2017年8月23日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.08.23より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=9067

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/

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