去る2012年5月中旬にオーストラリアを訪れた。私は2010年にもオーストラリア西海岸のパース、フリーマントルなどの都市に行ったのだが、今回は東海岸の諸都市を見てきた。オーストラリアは非常に大きな国であるから、東と西では都市の様相もかなり異なっている。しかし基本的にはオーストラリアの都市はイギリス的である。シドニーの中心部には「ハイドパーク」があり、それに接してイギリス国教会風の聖マリア大聖堂がそびえ立っている。ハイドパークの中央に立つキャプテンクックの銅像は、イギリスの植民地主義の記号になっている。
それは過去の遺産的な記号であるが、現代におけるイギリス的なのは、街のいたるところに設置されている防犯カメラ(CCTV)である。帰国後、私はデヴィッド・ライアンの『監視スタディーズ』(小笠原みどり、田島泰彦訳、岩波書店、2012)を読んだ。図書新聞(2012年5月26日号)に載った小倉利丸の書評を読んで関心を抱いたからである。ライアンによると、世界のCCTVの五分の一は、イギリスに設置されているというが、シドニーの市街もCCTVだらけである。
監視システムが重視される現代では、「セキュリティ」が「プライヴァシー」よりも優先される。ライアンは「管理社会から監視社会へ」という変化を強調する。それはフーコーが論じたパノプチコン的監視装置から、ドゥルーズが主張するリゾーム的な管理装置への移行であるとライアンは分析する。そして現代においては、「都市空間で日常生活を送れば、絶えず監視を経験することになる」と結論する。かつてヘーゲルは「都市の空気は人間を自由にする」と宣言したが、現代の都市は監視する都市へと変貌しつつある。
これとほぼ同時に、私はジャック・ドンズロの『都市が壊れるとき』(宇城輝人訳、人文書院、2012)を読んだ。主としてフランスにおける都市の崩壊を分析したものである。ドンズロはフーコー、ドゥルーズともつながりのあった社会学者であるが、1997年に刊行した『家族に介入する社会』(拙訳、新曜社、1991)では、国家・社会と家族の関係の問題を中心に考えていたが、その後は国家と都市の関係の問題へと視野を拡大してきたように見える。(私はこの『都市が壊れるとき』の書評を、「週刊読書人」6月1日号に書いた。)
ドンズロは、従来の都市論には「住居」の問題が欠けていると指摘する。「住宅は歴史的都市のなかで二次的な地位に甘んじてきた」からである。現代フランスの都市では、「諸階級の分離を許容し、組織立てさえする」状況が進行し、そのために人間相互の関係性が希薄になって、都市が崩壊つつあると分析する。アメリカに始まるという「ゲイテッド・コミューニティ」は、かたちはさまざまであるが、中国でも、私が今年の3月に初めて行ったフィリピンでも次第に増えつつあるように見える。 特定の住民を、周囲から隔離して、「セキュリティ」を優先させる方法である。ドンズロは「社会的混在」という概念を提示したが、その実現は、なかなか困難であるように見える。1970年に、アンリ・ルフェーブルは、そのころ広く読まれていた『都市革命』において、「都市社会」(société urbaine)という概念を提示したが、ドンズロは「都市的なものによる近代化の失敗」を指摘するのであり、40年前の「都市社会」の概念は再検討されなければならない。
(2012年6月4日)
初出:宇波 彰現代哲学研究所http://uicp.blog123.fc2.com/より許可を得て転載
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