生産コストの低減や市場開拓を目的として、経済的か技術的にか自分たちより遅れていると考えている国に工場なり事務所なりを開設する。順調に行けばお互いハッピーでいいのだが、進出側の自分たちの方が進んでいるという優越感が何時まで経っても乗り越えられない、両者が一緒になれない壁として立ちはだかる。進出先が経済的には発展途上にあるとしても、歴史的、社会的、文化的側面ではお互いに独自のものを持っているというだけで、どちらが進んでいて、どちらがこれからということではないことに気が付かいない、あるいは気づいていないとしか思えない言動に遭遇する。ちゃちな優越感が見える景色の成り立ちまで考えることをできなくしてしまっている。
現地で事業を推進するために、本国から支社の立ち上げ、その後の経営に必要とする人材を派遣する。派遣された人(たち)が本社の支援や承認を得ながら、支社のマネージメント層に現地の人たちを採用して支社の組織を作り上げる。
現時点あるいは近い将来に本社の中核事業に不可欠の業務を担う、あるいは社の将来を決めかねない重要な支社でもない限り、一線級の人材は駐在には出さない。駐在員がエリートだった時代は遠の昔に終わった。一方、現地で採用される上、中級管理職には高等教育に加えて先進国に留学した優秀な人材であることも珍しくない。留学まで果たした人たちの目には、母国の企業で企業と呼べるのは、コネが蔓延った公営企業か外資しかないということもある。そのような人たちの多くは社会の中間階層かその上の中・上流階級の出身者で占められる。中・上流階級出身者の多くが公営企業や外資の中でも世界的に名の知れた大企業の現地支社へのコネを持っている。コネのない中間階層出身の人たちにはそれほどは名前の知られていない外資の現地支社のテクノクラートとしての道しか残されていない。
支社の経営トップ(層)の人たち-駐在員として派遣された二線級(失礼)の人材が現地社会の中間階層出のエリートを雇用して、支社を経営する。販売する製品やサービス、社内の組織構成から意思決定プロセスなど社内特有のことに関しては、当然駐在員の方が知識の質量ともに圧倒している。しかし、ことに現地のことになると言葉の障害もあり、駐在員は小学生に毛の生えた程度の理解しか持ち得ない。駐在員の母国語、あるいはほぼ母国語に相当する言語が進出先の国でも共通語として使用されている特殊なケースを除けば、現地の言語が現地に関する知識の吸収への障害になる。
英国、米国、カナダ、オーストラリアなど英語を母国語とした国々に本社と支社があるような特殊なケースを除いて、本社のある国の言語は進出先の国では通じない。多くの場合、テレビでも新聞でも母国語のものを通してしか進出国のことを知り得ない。情報としては非常に限られた状態から始まり、たいした進歩もないまま駐在を終えて帰任する。
経営トップとしていくら頑張ったところで、現地のことは現地で雇用した従業員に任せるしかない。そのため、現地でどれほど優秀な経営層の人材を雇えるかが進出企業の業績を左右する。当然のことだが、名の知れた企業であればあるほど優秀な人材を確保し易い。また、現地でのビジネスが途につき成功すれば、開設当初より優秀な人材を得やすくなる。
現地採用経営層の人材が優秀であればあるほど、駐在員が優位を保てる社内情報以外の、人としてのありようから社会認識などの全般に渡る能力において駐在員が現地採用の人たちに評価されるという評価する側とされる側の逆転が生じる。現地で事業を推進しようとすれば、日々現地の社会、経済状況から、それを生み出しきた歴史や文化など社会の一般のことと無関係ではあり得ない。本社のある母国のものを現地に適用しようとしても摩擦が多いだけで得るところは少ない。母国の、本社のやり方をうまく現地化しなければ、支社の成功はあり得ない。
現地化するには現地雇用のラインワーカーや一般事務員ではなく、社会の中間層出身のエリートである従業員に依拠せざるを得ない。人材としては二線級の、しばしば、社会人としての一般的能力も決して優れてはいない上に現地の言語も使えず、歴史認識も含め進出先の国の状況の理解にも限りがある駐在員に現地エリートが忠実な下僕として仕え続けるにはおのずと限界がある。
自国より経済的にはまだまだこれからという国において、本国の歴史と文化によって生み出された先進の科学技術と経営手法、実経営で実証された本社のやり方を現地従業員や関係者に権力をもってして押し付ける。両国の経済格差が大きれば大きいほどより強く押し付ける。一方、中間階層出身のエリートは、できるだけ駐在員の心象を害さないよう注意しながら、実行可能な施策の自由度を手にいるために、現地の状況を手を変え品を変え駐在員に説明し、有能な下僕であることを証明しようとするだろう。
ところが、本心はどうであれ、言動においては優秀な下僕であろうとする現地エリートを駐在員はどう思うか?
おそらく二通りのケースがある。まず、第一のケース。度量の広い人であれば、かなり聞き入れる可能性がある。問題は彼が聞き入れたとして、現地からは文化的にも社会的にも遠く離れ、優越感を隠さない本社を説得するだけの能力、あるいは、気概があるかが問題になる。本社においてさえ二線級の人材が果たして海外支社の特殊事情を上司に説得し得るか?答えはNoだろう。もし、それでもしようすれば、もともとの二線級が現地ボケしたとしか思われない不幸が待っている。
第二のケース。普通のレベルの度量の広さ、フツーの人材だったらどうなるか?現地エリートを煙たがり、疎外するだろう。本社が求めているのも、駐在員が求めているのもジャーマンシェパードのような人材ででしかない。期待される人間像をジャーマンシェパードが象徴的に表している。一個の独立した個人ではなくジャーマンシェパードと考えれば、起きていることの説明がつく。
ジャーマンシェパードのような人材として求められる特徴は次のようになる。主人に愚直なまでに忠実で、訓練好きの性格、知的にも体力にも優れ、何があっても主人の命令を遂行しようとする強靭な精神力を持った人材。間違っても主人にあれこれ具申したり、ましてや社会がどうの経済がどうのなどという現地特有の状況の説教じみた口調での説明や主人の顔を潰しかねない言動などありようがない。
発展途上国にジャーマンシェパードのような人材としてありたいと思うエリートがどれほどいるのか、日本にどれほどいるのか知らない。フツーに想像して、どこでもそう多くはないだろう。
これは、日本本社と東南アジア諸国の支社を想定しているが、似たようなことは米国本社、ドイツ本社、オランダ本社。。。と日本支社の間でも、多かれ少なかれ、どこでも、当たり前のように毎日のように起きている。少なとも個人の経験として長年に渡って遭遇してきた。
多くの人が、一個人としてジャーマンシェパードを求める立場と、ジャーマンシェパードとしての存在を求められる立場の両面を、それもしばし同時に持っている。どちらも好きになれないが、ジャーマンシェパードを目指した人生を選択する人は希だろう。
自分では求められたくないと思いながら、人にはそれを求める。人として恥ずかしい。立場がそうさせる面もあるのだろうが、人としての良識と節操が立場からくる強制を和らげる。ただ、中にはより多くを求める得る立場になるのが人生の目的だと信じ込んでいる寂しい人たちもいる。見ているだけでも恥ずかしくなる。
なんとかならないものかと思ったこともあったが、何ができる訳でもない。そうこうしているうちに幾つもの業界で問題の最大の根源である優越感が、少なくとも日本と隣国間では揺らぎ始めた。国境を跨いだ産業構造の変化なのか、産業立地の移動とでもいうのだろう。かつては進出先ででしかなかった国が停滞した日本を抜き去り、日本を太陽に見立てて皆既日食と揶揄されるまでになった。状況が人を変え始めた。優秀な日本人が技術と経験に基いた知識を携えて現地企業に転職する。一昔前にはちょっと考えられなかった。日本人の優越感がここまで薄れるとは想像もできなかった。想像できなかったがゆえに薄れたところが大きく見える。それでも、世界を押し並べて見れば取るに足らないほんの一部か一局面。相も変わらずジャーマンシェパードを求め、求められ。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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