貴族という言葉は使いたくないのだが、いい言葉が思い浮かばない。仕方なく下記では便宜的に“貴族”という言葉を使っている。ここでいう貴族は一般的に言われている貴族とはちょっと違う。ここでの貴族は社会なり組織なりを背負って立つ立場や能力、責任に対する自覚のある人達とその社会層を意味している。
貴族が貴族たる立ち振舞ができるようになるには三世代かかると、何かの本に書いてあった。真偽のほどは確かめようがないのだが、多分、その通りだろう。初代は、平民から身をおこし、運もあったろうが己の才覚で成り上がった。論功なって貴族に列せられるようになるまでにはかなりの時間がかかる。経済的な成功に加え、社会的にそれなりの人物であると認められてはじめて貴族にということになる。かなりの年齢になってから成り上がり貴族として貴族社会のしきたりやら、言動やらを学ぶことになる。いわば付け刃の貴族。根っこのところには平民として生きてきた大きな尻尾をつけたままで、不慣れな貴族の立ち振舞や言動になる。味覚や嗜好、方言などいくら努力しても、隠そうとしても、捨てようとしても、残ってしまう平民文化がつきまとった貴族にしかなり得ない。
二代目は、初代が貴族に列せられるに至るまでの平民としての苦労、一平民から社会的成功を勝ち取ってゆくまでの長い道のりを子息として見ている。初代が貴族になったときには、すでに成人して社会に出ているだろう。余程遅くできた子供でもない限り、初代が貴族に列せられるときには、既に社会にでてそれなりの立場にいるはずの年齢になっている。恵まれていたとしても、平民文化のなかで平民としての教育を受けて育ってきた。根っこのところではやはり平民文化から抜け切れない。
初代はかなりの年齢になってからの根っからの俄貴族。二代目は社会人として自己を確立した歳を過ぎてからの俄貴族。根っこの深さに違いがあったにしても生活の基本は平民文化。その上にとってつけたような貴族文化が乗っている座りの悪さのなかで生きてゆく貴族。
これが、三代目となると、生まれた時から、あるいは物心ついた時には既に貴族で貴族文化のなかにいる。教育も嗜好も、話し言葉から。。。全てが貴族として、平民文化の尻尾のようなものが付いていない、付いていたとしても盲腸のように尻尾として存在感のない貴族になる。三代目にして貴族であることが当然の貴族に、貴族の家系になる。
この好例が徳川将軍家。徳川幕府三百年の確固たる礎を築いたのが三代目家光。三代目にして生まれながらの将軍が将軍として、将軍家が将軍家として固まった。似たような例は世界にいくつもあるだろう。好例を見る限り美談。三代目にして確固たる貴族家系になる。
多くの貴族の家系がこうしてつくられてきたのだろう。その社会層でもっともらしくなるには三世代かかる。ところが、世間ではまったく逆のことを見聞きすることの方が多い。初代が辛苦の末にやっと築いた富と名声が三代目には雲散霧消してしまう。三代目して貴族らしい貴族になるのかと思いきや三代目には没落貴族か平民に逆戻りというのがよくある。この違いはいったい何故起きるのか?どっちのケースがより一般的なのか?気にしたところで、そんな世界とは縁遠いところで生きている身にはしょうもないことなのだが、ちょっと考えてみる価値はありそうだ。
全ての生物生理に言えることだろうが、ストレスがないと生理器官の機能は低下する。生理器官にとって疲労やストレスがない健康(理想)的な環境は非理想的状態で、生理器官が活発に機能することが少なく、その器官が衰弱する。使わない器官は萎縮、退化し、進化の過程でまだなくなってはいないという遺物のような存在になってしまう。
逆の見方をすれば、あたかも何か患っているような状態、ストレスにさらされて、それに対応しよう、克服しようとている状態の方が器官としての機能が維持、強化されてゆく。スポーツのトレーンングや楽器演奏、語学学習、もっと一般的にいえば、社会生活はこのストレス、外部からの刺激を故意に生体に与えることによって生理器官や精神的体力を強化する作業や過程で、これは人生そのものにほかならない。
生理器官や精神が耐え得る限界を極端に超えたストレスは生理器官も精神も押し潰してしまうだろうが、その限界を超えない範囲でストレスが大きれば大きいほど、そのストレスに耐える、そのストレスを跳ね返す生理的および精神的な能力も大きく強化される。これは、フツーの日常生活で誰しもが経験していることだろう。
成り上がってゆく過程で、初代は大きなストレスを受けて生理的にも精神的にも強化され、その強化された新しい限界をもとに更なる大きなストレスを受けて、また強化が進む。そしてさらにというかたちで耐え得るストレスを大きくして能力を高めていった。ストレスと能力の関係からみると、三代目が置かれた環境は、初代のそれと正反対のものになる。三代目は、あまりに順境過ぎる(生理器官にとっての理想的な健康状態)がゆえに能力強化に必須の、あるいは必須の強度のストレスを得られない。得られないがゆえに、あったはずの能力までが萎縮してゆく。萎縮した能力で耐え得るストレスが減少する。一度萎縮に進んだ器官の再強化は難しい。三代目は、ちょうど初代の能力強化を生んだ好循環と真逆の悪循環に陥る。昨年(2012年)の衆議院選挙後、あったはずの能力が貴族として一見もっともらしい言動に、まるで退化の進んだ遺物のような器官として残っているのをよく見るようになった。なかなにはほぼ退化しきってしまった残滓のようなものまである。
こうして見てくると、いつもマイナスとしか思っていなかった出自の悪さや育った環境、低学歴や限られた社会経験まで、ほとんどのことが自分の能力を向上させるために与えられた、あるいは使えるストレスに思えてくる。生まれながらにして恵まれた環境を与えられたがゆえに能力を強化してゆく機会を得られなかった貴族は羨む対象ではなく憐れむ対象かもしれない。退化の進んだ遺物のような器官や機能、残滓など負の遺産もなく、幸いにして十分すぎるストレスを抱え込んだ自分の人生、鍛える楽しみが多すぎて困ることも多いが、あながち捨てたもんでもなさそうな。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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