「評論…」でもって岩田昌征氏が片桐幸雄氏「スラッファの謎を楽しむ」の書評をされ、その中で片桐氏が交換比率が技術的確定性から安定している生産手段から、そうでない消費財でなく、価値形態論を説いてはどうかと提起しているのに関して、マルクス経済学はどう考えるのかと、問いを投げかけている。
残念ながら、私はその著作を読んでいないので、本当にそのように片桐氏が記しているのか分からないが、スラッファ体系は賃金の実物バスケットも固定しているので、生産手段と労働力について、総てが投入係数として固定している体系ではないか?であるからすべての財についての価格が一意的に、需要の契機を捨象して生産の技術的連関から決定される、と主張しえたのではないか。
つまり、交換比率の安定性について生産手段と消費財の間で違いはない。
それから、価値形態論自体は生産手段と消費財の分化が開示されるはるか以前の、冒頭商品論で展開され、商品の使用価値的内容に関わらずに、商品の価値表現の内的関連から貨幣形態の発生を説くものとなっている。価値形態論自体に内在的に問題があるコトを指摘するならともかくとして、ただ、使用価値の内容(生産手段か消費財か)によって何か価値形態論の説き方に差異が出てくるのだろうか。
私は全くマルクス経済学を支持していないが、理解は十分している。そこからすると以上のような疑問が出てくるのである。
蛇足だが、同じ所で岩田氏は資本-労働の分配関係の変化によって市場価格が生産価格と価値価格の間を変動するとしているが、競争関係が貫徹していれば、市場価格は生産価格しかない。しかもその価値構成を統計的に把握できるそうだが、それは全世界の全生産部門の投入係数を労働力の質を単一化する還元作業と伴に確定して数百万本の連立方程式を解く、ということになるが、技術的に可能なのだろうか。
尚一般的には、スラッファ体系は固定資本の処理のため結合生産を明示的に取り入れたフォン・ノイマン体系に包摂されていると解釈されているのだろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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