1.)グローバル資本主義という現代世界のあり方は、転換すべき最終的段階にいたっているという多くの識者の認識を私も共有しています。これが「東アジア問題」を考えるときのマクロなレベルにおける私の認識・判断の最大の前提です。グローバル資本主義は一国的資本主義を超えて世界の地域的統合化、すなわち〈帝国〉的再分割を進めています。アメリカとEUと、そして旧社会主義国であるロシヤ、さらになお社会主義国を称している中国がグローバル資本主義世界における〈帝国〉として存立してきているのが、21世紀的世界の現状です。それが東アジア世界の現状でもあると私は考えています。
2.)グローバル資本主義が転換すべき最終段階であるということの最大の理由は、世界大で経済格差と社会分裂をもたらし、それをたえず拡大し、深化させていることにあります。人間の共同的生存条件を世界規模で失わせているのです。この社会分裂は国家的統合の危機であります。この国家的統合の危機はいつでも民族主義ナショナリズムを呼び起こすことになります。グローバル資本主義的世界で経済的躍進を遂げていった中国を始めとする東アジアの諸国が、21世紀の10年代に入って激しい民族主義的な抗争関係をとるにいたったことを、私はグローバル資本主義がもたらした国内的危機の深化と無縁に見ることはできません。
3.)21世紀に入ってからの現在にいたる日中、日韓間の民族主義的抗争関係は、それ以前の〈歴史認識問題〉をめぐる政治的緊張関係とは異質だと私は見ています。領土をめぐる国際的政治・外交問題が民族主義的抗争問題になっていくのは、むしろ国内的要因にあるということは20世紀の戦争史に照らしても明らかです。いま東アジアが民族主義的緊張関係を作り出しているのは、それだけ国内的危機は深く、社会分裂の度合いは大きいということを意味します。
4.)たしかに日本で安倍という歴史修正主義的な政治家の再登場をゆるした理由も、永続する経済不況と東北大地震と福島原発事故がもたした深刻な社会的危機にあります。それとともに東アジアの緊張的国際環境が政権担当者としての安倍の再登場を促したことも事実です。この安倍首相の再登場と現在にいたるまで政治的リーダーとしてのその存立を許していることは、野党の事実上の解体という日本の戦後政治のツケであるとともに、原発体制と軍国化に反対する市民運動がまだ政局を転換させるだけの力を質と量とにおいて残念ながらもっていないことによります。それとともに私があえてここでいいたいのは次のことです。
5.)いわゆる〈歴史認識問題〉をめぐる対日批判が民族主義的色彩をますます濃くしていることです。すでに〈歴史認識問題〉をこえた民族主義的な問題になってしまっているように思われます。このことがわれわれにとって不幸であるのは、一方では〈歴史認識問題〉再浮上の火付け人というべき歴史修正主義者安倍首相の立場を対抗民族主義的に支えてしまっていることです。そしてまた他方では日本政府の対応に批判的な私たちの発言を国内の民族主義的圧力が抑えてしまっていることです。これは非常に不幸なことです。東アジアの民族主義的対立という現状をだれがいったい望んだのでしょうか。国内危機を国際危機に転化させた国家権力の担い手たちでしょうか。いまこれをほくそ笑んでいるのは戦争神マルスだと私は思います。
6.)私は今年の四月、〈靖国参拝問題〉をめぐる韓国の通信社からの問い合わせに、もし安倍首相が靖国参拝をしたら、それを民族主義的レベルでとらえることをせずに、人類史的犯罪行為として抗議すべきだと答えました。ことに東アジアの隣人たちに与えた文字にも数字にもし難い加害にもかかわらず、なお日本首相がかつての戦争国家日本の祭祀施設に参拝することは人類史的犯罪です。こうした人類的抗議を通じてはじめて東アジアにおける〈靖国問題〉をめぐる市民運動的連帯を作り出すことができるでしょう。私たちが求めているのは民族主義的対立ではない、アジア市民としての連帯です。
7.)アジア市民の連帯は人類的、人類史的な普遍主義の立場において始めて可能でしょう。私が最初にいったように、グローバル資本主義の転換すべき最終段階としての現代世界は人類的危機をあらゆるところに、戦争や原発問題だけではなく、われわれの社会生活から生活基盤にいたるあらゆるところに問題を顕在化させています。この危機が民族国家をこえたアジア市民・生活者の連帯を呼んでいるのだし、この連帯こそが危機的現代世界の転換をもたらす力にもなるはずです。
8.)具体的には日本国憲法の平和主義的原則の理想と現実について日韓の学生たちが共同討議することがあってもいいのではないでしょうか。その際、韓国の徴兵制の実際について日本の学生が知り、ともに考えることができればきわめて有益だろうと思います。それと原発問題は本質的に地球的問題であり、原発的エネルギー体制として国際的体制の問題であり、これが一国的問題としてあるかぎり、その停止も廃絶も不可能であると思われます。生活者のレベルでの問題の共有と廃絶に向けての運動の連帯が緊急に求められていることです。
9,)最後に東アジアの儒教をめぐる問題ですが、私が今回の招聘講座でのべようとする大事な点は、〈東アジア〉を実体としてではなく、方法として考えようということです。〈東アジア〉を〈儒教文化圏〉として見ることは、〈東アジア〉を実体的に見ることです。この実体としてとらえられた儒教とは、中華帝国という礼教的体制を支えてきた道徳・政治的教説です。ですからいま〈東アジア儒教〉をいうことは、現実に登場しつつある中華〈帝国〉への再包摂を意味することでしかないと私は考えています。 〈東アジア〉を方法として考えるということは、〈東アジア〉をわれわれが創っていく〈東アジア〉として考えるということです。アジア市民の連帯と運動とは〈東アジア〉をわれわれの共同の生活世界として作っていくことです。
[これは今回のソウルの講演・ゼミナールにあたって「朝鮮日報」が企画した対談を、時間の都合上、書面をもってした際、ソウルからの問いに私がした回答のほぼ全文である。実際にはこの三分の一のみ掲載された。全体の文脈から切り離された靖国問題をめぐる私の発言に対して、多くの非難が寄せられている。もしその非難が私の全体的文脈から切り離された靖国をめぐる私の発言だけに向けられたものであるならば、是非この全文をお読み下さり、私の発言の主旨をご理解下さるようお願いいたします。2014,11.08.]
初出:子安宣邦氏のブログよりより許可を得て転載。
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study626:141117〕