ゾルゲが二重スパイとされた天皇と並んだ写真の真実

著者: 渡部富哉 わたべとみや : 社会運動資料センター
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まえがき─これまでのゾルゲ事件研究の足跡
 1998年11月7日、リヒアルト・ゾルゲと尾崎秀実の処刑された記念日に因んで、ロシアから国防省戦史研究所副所長ワレリー・ワルタノフ氏、ロシア科学アカデミー歴史学博士候補ユーリー・ゲオルギーエフ氏を招待して、東京で「20世紀とゾルゲ事件」と題するゾルゲ事件国際シンポジウムが開催された。
 日本側から石堂清倫(著述家)、白井久也(日露歴史研究センター代表)、三雲節(NHKディレクター)、などが参加した。「ゾルゲ事件」に関する最初の国際シンポジウムであり、300名を越える参加者があり、大盛会となり、その報告集は白井久也・小林俊一編著『ゾルゲはなぜ死刑にされたか』(社会評論社)が刊行された。
 これまで日本のゾルゲ事件研究は『現代史資料・ゾルゲ事件』(全4巻 みすず書房)によりかかって、その解釈の域をこえる作品は少なかったが、ようやくその壁を打ち破って、国際的な研究の成果と資料が交換され、ゾルゲ事件研究の新たな第一歩を踏み出した画期的なシンポジウムであった。
 これが契機となって2年ごとにゾルゲ事件に関する国際シンポジウムの開催が合意され、第2回モスクワ(2000年9月25日)、 第3回オッツェンハウゼン(ドイツ、2002年11月25日)、第4回ウランバートル(モンゴル、2006年5月25日)、第5回バクー(アゼルバイジャン、2008年9月22日)で引き続きゾルゲ事件シンポジウムが開催され、いま第6回を中国・上海で開催する準備を進めている。
 
1)ゾルゲ研究の飛躍をもたらしたモスクワシンポジウム
 2000年9月の第2回モスクワシンポジウムはロシア国防省付属戦史研究所、ロシア平和委員会と日露歴史研究センター(代表白井久也氏)の共催で開催された。このときのロシア側の豪華な顔ぶれはロシアにおけるリヒアルト・ゾルゲ研究の熱意を遺憾なく示したものだった。
 ロシア軍参謀総長クワシニン中将、対外諜報員の退役中将コンドラショフ・セルゲイ・アレクサンドロビチ氏、元ロシア連邦参謀本部諜報総局代表ルイバルキン・ピョトール・イワノビチ中将、ロシア連邦社会宗教局長トマロフスキー・ウラジミール・イワノビチ氏、ロシア科学アカデー歴史学博士候補ゲオルギーエフ・ユーリー・ウラジミロビチ氏(ロシア語月刊誌「今日の日本」オブザーバー)、コーシキン・アナトリー・アルカディエビチ氏(東方総合大学教授)などである。
 その白熱した討論は日本では到底想像もできない壮大な規模と内容のシンポジウムであった。その報告は白井久也編著『国際スパイゾルゲと世界戦争』(社会評論社)となって結実した。
 これがその後の日本のゾルゲ事件研究の水準を一挙に飛躍させたことはいうまでもない。これを契機にやがて日露歴史研究センターは「ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集」を定期的に刊行(創刊は2003年10月)するようになり、 2011年7月現在30号を数えるにいたっている。
 それまでロシア側ではゾルゲ(事件)研究はほぼゾルゲの諜報活動や論文、評論などの分析にかなり限定された研究の域に留まり、日本では前述のような水準から飛躍できなかった。それがこのモスクワシンポジウムの開催によって、日露歴史研究者の交流が進み、とくに日本側ではロシア側のゾルゲ研究の成果に直接触れることができるようになり、ゾルゲがなぜスターリンに疎まれたのか、ゾルゲのドイツによるソ連侵攻の具体的な超国家機密の情報がなぜ信用されなかったのか、その根源はゾルゲがスターリンから粛清されたブハーリンの秘書的な存在だったという経歴にあり、ゾルゲのコミンテルン時代にさかのぼる政治的な不信にあったこと、ゾルゲがコミンテルンの国際連絡部(OMS)から赤軍参謀本部諜報総局に移籍した事情や、スターリン粛清がゾルゲの所属した諜報総局を巻き込んで、歴代の諜報局長が処刑されたことなど、日本ではこれまで到底想像すらできなかったゾルゲに関する秘話が次々に明かされた。
 これは何といっても大きな収穫であり、それは当然、日本のゾルゲ研究を一気に飛躍させることになり、2003年6月、篠田正浩監督による「スパイ・ゾルゲ」の映画化によって一層の拍車をかけることになった。
 
2)スターリン粛清が諜報総局に及ぼした影響
 勿論、ある日、突如として成果が転がり込んできたわけではない。1996年のある日、ロシアのイズベスチャ紙(94年11月4日)に「ゾルゲ最後の日々」(アンドレー・フェシューン氏執筆)が掲載されたことを知った。その論点はこれまで日本のゾルゲ・尾崎秀実研究には全く見られなかった情報と瞠目すべき諸問題が満載されていた。そこに採り上げられている論点はおおよそ次のようなものであった。
 「スターリン粛清の弾圧の波は、参謀本部諜報総局においても、その在外機関員さえも見逃さなかった。局長から部長、課長に至るまで、異常な慌ただしさで、任免がくりかえされた。なんとか『代行』の名称を貼り付けて間に合わせるといった体たらくだった。新任の上司にすればゾルゲは最早具体性を欠いた抽象的な人物と化し、しかも本人を弾劾する文書が残っていたために、ますます疑わしい人物となっていった。
 諜報総局東方部日本課内部には2つの派が生まれていた感があり、そのうちの一派(ボクラドク、ロゴフ、ウオロンツォフ)らはゾルゲを信用せず、他の一派(キスレンコ、シロトキン、ザイツエフ)は信用していたようである。
1937年後半に『ラムゼイ』召還と同機関全体の解体が決定された。が、この決定は数カ月を経て撤回される。この決定を撤回させたのはNKVD(内務人民委員部)から転任してきた諜報局長代理のS・G・ゲンジンだった。
 ゾルゲ機関から送られてくる情報がデマ情報だとの疑いが強まっていたにもかかわらず、ゲンジンはゾルゲ機関を擁護しないまでも、存続させることができたのである。日本駐在機関は維持されたものの、『政治的には欠陥がある』『敵に暴露され、その管理下で活動している恐れがある』といったレッテルがゾルゲに貼られてしまった。ゲンジンの報告書にも次のようなまえがきが付くようになった。
 『全連邦共産党中央委員会 同志スターリン宛
 在東京ドイツ人筋に近いわが情報源の報告を提出する。この情報源はわが方の全面的な信頼を得ていないが、その情報の一部は注意を向ける価値がある』
1937年9月に作成されたゾルゲに関する8行の身上書には次のような言葉で結ばれている。『政治的には全く未点検。トロッキストらと関係があった。政治的信頼は未知数である』
 諜報総局の前日本課長シロトキンの運命は悲劇的だった。38年に逮捕されて、『日本のスパイである』と自供を強要され、さらに『ゾルゲグループを日本側に売った』との自白を強いられた。勇気ある人物だったシロトキンは裁判の席でそれらの自白を認めることを拒否した。幸い、彼は銃殺されずに済んだ。彼は禁固刑を受けて、名誉回復まで生き延びた。その彼がゾルゲに対するセンターの態度を次のように分析している。
 駐在諜報機関(ゾルゲ機関)に対するセンターの態度には二重性の要素が非常に目立っていた。『ラムゼイ』から送られてくる情報は大部分が高い評価を受けたが、指導部の指示で『同機関の構成員と活動に関する調査書』が作成されたときには、調査書担当者らは同機関に貼られた「政治的不信」というレッテルを無視する決心がつかず、健全な論理に反して、ゾルゲ機関の活動の実際の成果を考慮に入れずに、判断と結論をそのレッテルに合わせてしまう。
 しかも、そのような結論を引き出すだけの確実な根拠が欠けている場合には、そのたびに上海での失敗に関する総括や『デマ情報であることに疑問の余地なし』というボクラドクの主張をはじめ、以前の調査書にあった憶測や推理がまたまた持ち出されるのだった。
1937年からゾルゲの報告は疑いもなくデマ情報であったこと、他のものは以前の問い合わせからの憶測や予想であったことである。最後の4年間には『ラムゼイ』を節操のない『二股膏薬』視する偏った態度が定着したため、当然ながらゾルゲ機関に対するセンターの指導の質は急激に低下せざるを得なかった。駐在機関員が『二股膏薬』である以上、その機関員は敵の監督下で活動しているわけであり、早晩、崩壊に終わることは論をまたない。同機関が存在する限り利用すべきだが、同機関の強化や発展のために費やす意味は最早ない。この見解を他方の側の立場と比べるのも興味深い。
インソンに対する政治的不信の由来(1941年8月11日付報告メモ)
 『長期間にわたりインソン(ゾルゲ)は、後に人民の敵と判明した諜報局旧指導部(注、ゾルゲを諜報部門に引き入れた諜報総局長ベルジン以下の諜報局長を指す)の指導下で活動していた。そこから次の結論が導きだされる。つまり、もし人民の敵がみずから外国の諜報機関に身売りしたとするなら、彼らがインソンを裏切らないはずがあろうか。
 たとえば元第2部長カリンはドイツのスパイであり、本人の言葉によると、彼はわが方の在中国秘密工作員数名を売ったという。カリンが部長だった当時、インソンは日本で働いていた。元日本課長ボクラドクは日本のスパイだった』」(伊藤律の名誉回復を求める会会報「三号罪犯と呼ばれて」創刊号「ゾルゲ最後の日々」 95年11月)
 この他「インソンに関しては入党前の過去の活動や、党内でどのように活動していたか、どうして入党し、どうしてその後、諜報局にはいったかを示す記録がない。
 インソンは在京ドイツ大使館のあるフアシスト細胞の書記である。だが、インソンに対してなぜ大使館の公的な仕事に就かないのかと聞くと、いつも次のような答えが返ってくる。『私の過去を御存知だろう。ドイツ公館の仕事に就こうとすればゲシュタボに綿密に調べられるからそれが私の命取りになりかねないのだ』
 インソンの問題は新しいものではなく、それまでも一度ならず審議にかけられた。もし彼が日本側に売られているとするなら、日本側ないしはドイツ側が彼をつぶさないのはなぜなのかという問題である。
 いつも結論はただひとつ、つまり日本側ないしはドイツ側がインソンをつぶそうとしないのは、彼を諜報活動のためにわが方に送り込むためである」(アンドレーフェシュン、前掲書)というものである。
 しかもこれは41年8月の時点でのセンターの立場だったというのだ。だがこの時、歴史は既に独ソ戦(大祖国戦争)が進行中で、モスクワはドイツ軍の包囲下にあったときだから、戦争の始まる以前と以後ではゾルゲの信頼は大きく変化したものと従来は受け止められてきたが、この報告によると必ずしもゾルゲの評価は画一的なものではなく、もっと複雑なことをこの報告は示している。
 トマロフスキー氏によると、「状況はもっとはるかに複雑なものだった。当時、諜報機関の周辺には粛清の波が押し寄せてきて、責任感の強い何人かの要員が埠頭逮捕されて取り調べを受け、虚偽の供述を強いられた。その中にはゾルゲがあたかも『ドイツのスパイ』、『偽情報の提供者』『道徳的に腐敗堕落した輩である』という供述もあった。
 内務人民委員部ではすでに東京に於ける非合法な諜報機関は、敵の監視下で活動していたという見方ができあがっていた」という。(「ソ連指導部から見捨てられた諜報員の運命」)
 ソビエト指導部はドイツの攻撃が切迫しているというゾルゲの通報に対して、センターは反応を示さなかった。日本は対ソ攻撃をしないことを決定したというゾルゲの報告のおかげで、当時、モスクワ戦線で必要不可欠になっていた新鋭のソ連軍師団を極東から異動させることが可能になった、とする通説さえ疑問視される論文は今日でも引き続き繰り返し登場している。
 これらは一読して分かるように、これまで日本では全く知られなかったゾルゲを送り出した諜報本部内の確執や、スターリン粛清が諜報局を襲った実態とゾルゲの関係などの情報が明かにされていた。
 これらの記事にまつわるももろもろの情報や事情などの詳細や事実関係を知りたくて、白井久也氏の案内で、初めてモスクワを訪問したのは1996年のことだった。アンドレー・フェシューン氏(現在、駐日ロシア大使館1等書記官)やユーリー・ゲオルギーエフ氏(ロシア科学アカデミー歴史学博士候補)とはこうして交際が始まった。
 続いて1998年に再びモスクワを訪れ、東京で開催を予定しているゾルゲ事件国際シンポジウムの打ち合わせなどをおこなった。そのときもA・フェシューン氏から沢山の教示と資料を戴いた。そして第2回ゾルゲ事件シンポジウムの日本開催に向けて、沢山のゾルゲ関連資料を日本に持ち帰ることができた。なかでも「秘録 ゾルゲ事件─発掘された未公開文書」(資料編)(フェシーン、A・G編著)は『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』(白井久也編 社会評論社)に収められ、ゾルゲ研究の新しい貴重な基本文献と位置づけられるものとなった。
 
3)昭和天皇と一緒に写っているゾルゲ写真は二重スパイの証拠とされた
 2000年9月のモスクワシンポジウムでトマロフスキー、ウラジミール・イワノビチ氏は次のように報告した。
「あるときゾルゲはクーリエ(伝書使)を通じてモスクワに写真を送った。写真には天皇が軍事演習の際に駐日ドイツ大使ディルクセンと謁見した瞬間がまぎれもなく写っていた。撮影がおこなわれたのは、ほかならぬ天皇のテントのなかであった。ディルクセンは天皇の手を握りしめ、そのすぐ脇にゾルゲが立っていた。このことから本部はどんな結論に達したのか?
 ディルクセンがテントのなかで天皇と謁見したとき、ラムゼイ(ゾルゲ)が同席した事実は、ディルクセンがそこではゾルゲを完全に身内の人とみなしていたことを証明している。たとえゾルゲが自分の身分があばかれて、わけも分からずに使われていたとしても、彼に対する態度は、あたかもソ連のスパイ(たとえ彼を密かにあばいていたとしても)と同じように扱われて、どんなことがあっても天皇のテントの中まで入り込むことはありえなかったであろう。
 従って、もし「ラムゼイ」の身分が暴露されたことを考えるならば、彼は単に暴露されただけではなく、ソ連諜報員による偽情報提供者として、日独両国のために働いていたと結論に達せざるを得ない」(「ソ連指導部から見捨てられた諜報員の運命」白井久也編『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』所収、社会評論社)というのである。
 「ゾルゲは日独側のスパイでなければ軍事演習のとき天皇と近づきになれないだろう。だから彼は日独側のスパイであり、ソ連諜報局にたいして偽情報を流すに違いない」という。この情報はしばしばロシア側から、ゾルゲがスターリンに疎まれた説明に使われている。(「ゾルゲ最後の日々」イズベスチャ紙94年11月5日)
 「このような不信のもとでは、どんなものでもゾルゲに対する中傷の材料とされた。1937年、ゾルゲは伝書使に託してモスクワに1枚の写真を送った。それによって、ゾルゲは日本でいかにしっかりとした足場を築くことに成功したかを伝えようとした。写真には位のたかそうな日本人と握手している駐日ドイツ大使ディルクセンと並んでゾルゲの姿が写っていた。この写真について情報本部は次のような解説を加えている。
 『ディルクセンの認証式に立ち会うために“ラムザイ”が天皇のテントに入るのを許された。(注、実はこれは錯誤である。写真はディルクセンの認証式ではなく、満州国皇帝溥儀の公式訪日に当たって横浜港で撮影されたもので、握手している人物も天皇ではなく、天皇の弟秩父宮であることが、渡部富哉の丹念な調査のおかげで判明している)は、彼がそこでは完全に味方とみなされていること示している。
 もし彼の身元が割れているなら、彼はソ連のスパイとして扱われたはずであり、決して天皇のテントには入ることは許されなかっただろう。したがって、もし“ラムザイ”の身元が割れていたとするなら、彼は身元が割れているばかりか、ソ連諜報部に対する偽情報工作者として日独側のために働いていると結論せざるを得ない。ともかくこの写真が1つの決め手になって、1937年秋、情報本部はゾルゲを懲罰のためにモスクワに召還することを決定した。しかし、ゾルゲは先を読んでいたから、ドイツ情報局東京支部長への就任を口実にこの命令を拒否した。
 もしゾルゲがドイツ情報機関のために働いていたとすれば、ドイツはゾルゲを通して偽情報を流すことができたはずである。しかし、もしそうであるなら、なぜドイツはモスクワに対ソ攻撃の情報をあれほど執拗に流す必要があったのか、説明がつかない。
 これに関連して2つの事実を挙げておこう。最初は元国家保安大尉S・ゲンディンのゾルゲに対する評価である。彼は1937年、NKVDから情報本部に送り込まれ旧世代の軍事諜報部幹部の弾圧に辣腕を振るった人物である。ゾルゲのある電報に対してゲンディンは次のように付記している。
 中央委員会同志スターリンへ。『極秘』わが方の情報源からの報告を提出いたします。この情報源はわれわれの全面的な信頼を得ているわけではありませんが、彼のいくつかの情報は留意に値します」(ゲオルキーエフ「リヒアルト・ゾルゲの伝記的スケッチ」上下2巻、平井友義抄訳、翻訳集№1、2003年10月)
ゾルゲのナチ党への諜報協力の指摘
 「ジャーナリスト(ジルノフ)が別の方面から強調しているのは、ゾルゲはドイツから価値のある情報を入手するために、ドイツ第三帝国(ライヒ)に忠誠を誓ったのである。このためモスクワの許可のもとで、ナチ党(国家社会主義者ドイツ労働者党)の諜報機関と協力する旨の契約書提出の求めに応じた。
 ナチ党との協力関係の結果、ゾルゲの情報は有名なワルター・シェレンベルクのナチ党情報局(SD)第6部にもまわされることになった。これとともに、アナトリー・ジルコフが指摘しているのはゾルゲはドイツ軍の諜報組織とドイツ国防軍再考司令部外国諜報局(アップベア)で働かざるを得なかった、ということである。ジャーナリストの言によると、とどのつまりはお互いに張り合っている7つ乃至8つの軍の秘密諜報団は、同じ内容の、日本の情報乃至、情報分析を受け取った。このほかにゾルゲは受け取り手の水準を考えながら、自分の分析論文を作成した。それ故にモスクワに短くて簡単な報告を提出する一方、ベルリンには長くて、よりよい論証となる報告書などを送ることになった、というのである」(エレーナ・カタソノワ「現代ロシア史におけるリヒアルト・ゾルゲ」(「翻訳集」№4、2004年6月号)
 要するに、ソ連の政治・軍事指導者はドイツの攻撃に関するゾルゲの粘り強い警告に耳を傾けようとはしなかった」(ゲオルギーエフ著、上掲書)
 このゲオルギーエフの著作によって初めてロシアの研究者は、デイルクセン大使が天皇と謁見している写真は実は天皇ではなく天皇の弟秩父宮雍仁(やすひと)親王であることがロシアでもようやく広く知られるようになった。
 引き続きロシア科学アカデミー東洋学研究所研究員エレーナ・カタソノワ氏はゲオルギーエフ氏の前記の著作を引用して「ゾルゲと一緒に写っている写真」は天皇ではなく、秩父宮雍仁親王であることを重ねて認める論文を発表した。(前掲書)この写真は実際には1935年に撮った写真だから、真相が解明されるまで実に75年が経過していたのである。

4)誤報は瞬く間に広まった
 1937年にゾルゲが伝書使に託してモスクワに送ったとされるこの写真は「再検証ゾルゲ事件─在米中の寺谷教授に聞く」(サンケイ新聞1984年12月12日[3回連載])に「オットドイツ大使とお会いになる天皇陛下。その場にゾルゲ[正面中央]の写真が写っている。ソ連の書『ゴロス・ラムゼー』(注、『ラムゼーの声』)からとしてその写真が掲載されている。日本で出版されたセルゲイ・ゴリヤコフ、ウラジミール・バニゾフスキー共著『ゾルゲ 世界を変えた男』(パシフィカ)によると、「本書はその著の全訳」だと書いているが、原著には掲載されていると思われる「天皇とゾルゲが写っている写真」は邦訳には掲載されていない。
 この写真とキャプションが寺谷教授の提供によるものか、サンケイ側のものかは確認できないが、寺谷教授は他でも同じように書いている。ソ連の著書からの引用だから、トマロフスキー氏の報告にあるものと同じ写真であると思われるが、トマロフスキー氏はドイツ大使をディルクセンだといい、サンケイ新聞ではオット大使だと書いているが、これは誤りである。この写真に写っている人物はオット大使ではなく、ディルクセン大使である。
 このサンケイの記事は「ゾルゲ・尾崎秀実の処刑40周年を記念」したものだった。
 日本のゾルゲ事件研究者として著名な石堂清倫氏は、寺谷教授らの研究とロシア側の説明をそのまま受け入れて、『異端の視点』所収「リヒアルト・ゾルゲについて」(勁草書房)で、次のように書いている。
 「ドイツ大使フォン・ディルクセンはゾルゲをたんに特派員としてだけではなく、自分の私的顧問に使うことで、大使として有能な仕事ができると信じてゾルゲをたいへん大切に使います。その1つの証拠に、ディルクセン大使が、今の天皇と会見している写真に宮内省や警察の大官と並んでゾルゲも写っているのです。一介の新聞記者にすぎませんが、大使が天皇に接見するときに、大使館の参事官や駐在武官のように身分のある職の人でなしに、新聞記者のゾルゲを随員として連れていったのですから、ディルクセンがどれほどゾルゲを大切にしていたかということは、これでお分りになるだろう」と。
 ゾルゲ事件研究の大家のお墨付きによって、これが全く疑問なしに「天皇と握手しているドイツ大使とゾルゲ」の写真として罷り通ってきた。この写真はロバート・ワイマント著『引き裂かれたスパイ・ゾルゲ』のドイツ語版でも使われており、同じように「天皇と握手するディルクセン大使とゾルゲ」のキャプションが付けられている。
 筆者は1993年にゾルゲ事件の端緒とされてきた伊藤律のスパイ説を反論した『偽りの烙印』(五月書房)を出版した直後、当時、共同通信社編集委員だった横堀洋一氏から「その写真は天皇ではなく、天皇の弟秩父宮だ」と教示を受けていた。だがその当時はまだゾルゲ事件研究にそれほどのめりこんでいたわけではなかったので、その裏付け調査はおざなりのものだった。
 この写真は、1996年に白井久也氏と私がモスクワを訪問したとき、モスクワ郊外のゾルゲ通りの地下鉄ポレジャーエフスキー駅ちかくにある小・中学校のゾルゲ記念博物館(その前に有名なゾルゲの巨大なモニュメントがある)でも、4つ切り大に拡大した同じ写真が展示してあり、キャプションも同様の趣旨が書かれていた。
 そのときに博物館側(女性のパゴージナ校長)に「これは天皇の写真ではなく、天皇の弟秩父宮雍仁(やすひと)親王であるから、キャプションを訂正するように」申し入れましたが、対応は冷やかなものだった。
 この写真はゾルゲが日本の権力の最深部にまで到達していたことを示す何よりの証拠になる非常に珍しいものであり、結構あちこちの著書で使われ、同様のキャプションで説明されているから、真実より神話のままのほうがゾルゲの偉大さを説明するには効果があると思われたのだろう。
 4~5年前、サマーセット・モームに関する講演会でもこの写真が資料として会場にと配布されていたことを思い出す。
 
5)ゾルゲと昭和天皇が写っている写真は天皇ではなく秩父宮だった!
 7年ほど前に筆者は専修大学神田校舎で五月書房主催「現代史講演会」でかなり詳細にこの問題を取り上げて報告したが、そのときも大勢の参加者があり、相変わらずゾルゲ・尾崎秀実にたいする関心の深さに驚いたものだ。だがその講演記録は公刊されなかった。
 2002年、ドイツのオッツェンハウゼンで開催された第3回ゾルゲ事件国際シンポジウムの打ち合わせのために再び白井久也氏とモスクワを訪問し、トマロフスキー氏を表敬訪問したとき、筆者はトマロフスキー氏のモスクワシンポジウムの報告「ソ連指導部から見捨てられた諜報員の運命」に記載されている「駐日独大使とともに天皇に謁見したゾルゲ」について率直に、その写真に写っている天皇とされている人物は、実は天皇ではなく、天皇の弟秩父宮であり1937年の陸軍大演習のときのものではなく、1935年4月7日、満州国皇帝溥儀が建国10周年を記念して来日し、横浜港に上陸したときの写真であることを説明した。
 トマロフスキー氏は信じられないと言った面持ちだったが、「ゾルゲと天皇が写っている写真は昭和天皇ではないという貴方の見解を論文にまとめ、その証拠として当時の新聞記事を探して、併せて提供してくれないか」と要望された。「それが貴方の言う通り事実だとするとロシアにおけるゾルゲ評価に大きく貢献することになるだろう」と言った。
 同席し、通訳をしたのはゲオルギーエフ氏とA・フェシューン氏であった。私の論文をゲオルギーエフ氏が主宰する雑誌「今日の日本」に掲載するという。原稿はそのときにまとめ雑誌「今日の日本」に写真入りで掲載された。がその後、パソコンの破損によって再び原稿が引き出せなくなってしまった。そんな御難続きの経過でこの「ゾルゲと一緒に写っている写真」の真相の発表か大幅に遅れてしまったのである。
 ➀まず最初にこの写真をとくとご覧ねがいたい。天皇とされている人物と握手している人物はディルクセン駐日ドイツ大使であり、写真中央の紅白のポールの向こう側に写っている人物が問題のゾルゲである。横堀洋一氏が天皇ではなく秩父宮雍仁親王であると確認した根拠は、袖につけられている火焔模様と鳥の羽のついている帽子であった。
 写真の人物の袖の火焔模様と鳥の羽は陸軍の大尉相当官が着用するものであり、天皇のそれとは格段の違いがあるのは、次の天皇と秩父宮の写真と見比べれば一目瞭然である。
  ➀問題の天皇とディルクセン大使が握手している写真(正面がゾルゲ)
 
 
  ➁下の写真左側は秩父宮、右は昭和天皇、前立と火焔模様の袖章の違いは歴然

 
 
  ➂は『帝国服装要覧』に掲載された袖の火焔模様の階級別比較から階級別の袖章、帽子を比較して秩父宮の当時の陸軍大尉級のものと確認した。(➁➂は横堀洋一氏提供)
   
 ④は「建国」後の「満州国皇帝溥儀」が1935年4月7日、大連から乗った戦艦「比叡」で横浜港に入港したとき、昭和天皇の代理として秩父宮が、横浜港に「満州国皇帝」を出迎えたときの当日付の朝日新聞の記事(昭和10年4月7日付)であり、写真左には「御上陸の皇帝陛下」の下に小さな活字で「先頭より御3人目が陛下(満州国皇帝)、その前が秩父宮殿下」と明記されている。
 紅白というのは、外国人にはわからないかもしれないが、日本ではお目出度い祝いごとに使われるもので、この写真はトマロフスキー氏が 言うような陸軍大演習のときのものではないことは明白である。


 ⑤タラップを下りてきた「満州国皇帝」(敬礼している)と秩父宮
 問題の➀の写真「天皇とゾルゲが写っている写真」はこのとき出迎えた秩父宮と握手しているデイルクセンの写真だったのです。何よりの証拠はこの写真にある紅白のポールが➀の写真中央に大写しされていることです。


 満州国皇帝が到着後、秩父宮はそのまま特別列車で横浜港から皇帝溥儀と一緒に東京駅に向かい、東京駅では昭和天皇が同じように羽付帽子、大礼服姿で皇帝溥儀と対面し、馬車に乗り込みました。このときの昭和天皇の姿は当時ニュース映画にも出てきますが、皇帝溥儀と昭和天皇が並んで馬車に乗っている写真は『一億人の昭和史』(毎日新聞社)「満州編」にも掲載されていますから比較して見たらいいだろう。
 そこでは何よりもひときわ目立つものは胸一杯に着けたベタ金の勲章です。横浜港に皇帝溥儀を出迎えた秩父宮にはこうした勲章はありません。

 なお、「満州国皇帝」はその後、昭和15年に紀元2600年の式典にも参加し、前後2回日本を訪問しています。戦前の天皇は「現人神」で、「神聖にして不可侵」ですから、公衆の面前で民間人と握手するようなことはありませんでした。戦後ですら、秩父宮が死去したとき、直接赤十字病院にお見舞いに行くというようなことはなく、見舞品を贈って見舞うだけで、死後、秩父宮と対面しています。
 児島襄著『満州国の興亡』によると、「皇帝溥儀にたいする日本側の歓迎ぶりは、丁重を極めた。乗艦として『比叡』を大連に派遣し、駆逐艦『白雲』『叢雲』『薄雲』が護衛した」「5日、午前9時35分、横浜港に到着すると秩父宮雍(やす)仁(ひと)親王が接伴委員林権助男爵とともに、『比叡』に表敬し、午前11時30分、列車が東京駅に到着すれば、プラットホームには天皇が出迎えていた」と書いている。
 それにしてもGRU(諜報総局)はこの写真で秩父宮と天皇を見誤って、「ゾルゲが日独側のスパイでなければ軍事演習のときに天皇には近づけなかったはずだ」と、ゾルゲが疑われたことは残念なことであり、驚きであった。これによってゾルゲは日独の二重スパイとされ、粛清の対象となり、本国帰還の命令が出たことをトマロフスキー氏はシンポジウムで報告したのです。
  筆者は『国際スバイゾルゲの世界戦争と革命』の出版に当たって「小見出しの天皇」とある箇所を「秩父宮」と訂正してよいかと確認の上、同書では(注)をつけたのである。因みに1998年の東京で開催された国際シンポジウムの報告集『ゾルゲはなぜ死刑にされたのか』(社会評論社)の口絵にもこの写真が使われているが、ここでも「天皇」ではなく「秩父宮」と正しく書かれている。

6)ロシア側の説明はさまざまな新たな疑惑が生まれる
 しかし、この写真はトマロフスキー氏が言うように、「ゾルゲが伝書使に託してモスクワにおくった」ものではないと考えられる。「1937年陸軍の演習のときのもの」という発言は新たな数々の重大な疑惑を生むことになった。
 前述した「ゾルゲ最後の日々」によると、「このような不信のもとではどんなものでも、ゾルゲに対する中傷の材料とされた。1937年ゾルゲは伝書使に託してモスクワに一枚の写真をおくった」とある。
 しかし、実際にはこの写真はこれまで見てきたように1935年4月5日、大連から乗った戦艦「比叡」で横浜港に入港したときのものであることが判明した。それは1937年の陸軍の大演習のときとは全く関係はない。
 となると、もし本当にゾルゲが1937年に伝書使に託してモスクワに送った写真であるなら、当然、この写真についての説明がついていたはずではないか。それなしに写真だけを送っても何の意味もないし、受け取った側は何を意味するのか分からないではないか。それは情報とは言えないだろう。
 この写真が「軍事演習のとき」などというのは誤りであることが判明した。それが「1937年の陸軍の演習のときの写真」だと説明されていたとすると、にわかにこれまで筆者が抱き続けてきた「スターリン密告説」の仮説が急に現実味を帯びてくる。1937年5月5日に代々木練兵場で陸軍大演習がおこなわれ、昭和天皇は愛馬「白雪」にまたがって、閲兵している姿はニュース映画で全国に放映されており、新聞にもその写真は掲載されたからだ。これは筆者らの世代のものなら記憶があるはずだ。
 ところが、真相は1935年4月7日の満州国皇帝溥儀が横浜港に上陸したときの写真だとすると、わざとその真実を隠して、2年後の1937年に行われた「陸軍大演習」のときの写真としてモスクワに送ったことになる。
 送り主は写真を撮った本人たちだから、その写真が1935年の横浜港のものであることを知っているはずだ。もちろんその送り主はゾルゲではなく、別の組織と別のルートであろう。それはかなり意図的な謀略と受け取れるものではないだろうか。
 これはゾルゲが伝書使を通じてモスクワに送ったものではなく、ゾルゲとは別の在日諜報機関(NKVD)がモスクワに送ったものならば、その意図を読み取ることができるし、その可能性のほうが高いと筆者は考える。その裏付けは日本にはない。
 もし本当にゾルゲが送ったものならば、写真の説明も書かずに、なぜゾルゲは実際の撮影日より2年も後の1937年になって、「軍事演習のとき」などと偽装する必要があるのか。
 とするとこれまで「ゾルゲ最後の日々」などを含めて説明されてきたように、ゾルゲに対する中傷や召還などは全部1937年以後のことで、この写真がその中傷の何よりの証拠品として使われたのではないのか。
 アイノ・クーシネンの著(『革命の堕天使たち』平凡社)によと、彼女とゾルゲに帰還命令が届いたのは1937年11月のことだ。在京のゾルゲグループはこのとき会合を開いて協議をした。ゾルゲは帰還命令を拒絶し、アイノ・クーシネンに「4月までは東京を離れられない」と局長に伝えるように頼んでいる。
 アイノ・クーシネンが日本に派遣されるときの任務の一つに「ゾルゲの監視」の一項目があったこともモスクワシンポジウムで報告された。帰国したアイノ・クーシネンは、ゾルゲに対するGRUの疑惑に対して「ゾルゲは信頼できる」と報告したという。アイノ・クーシネンの粛清にはそんなことも原因の1つにあったのかも知れない。
 『リヒアルト・ゾルゲ─伝記的スケッチ』(前出)によると、「この写真について情報本部は次のような解説を加えている。
 ディルクセンの認証式に立ち会うために“ラムザイ”が天皇のテントに入ることを許された」と。これはロシアの著名なゾルゲ研究者のユーリー・ゲオルギーエフ氏の2002年の著作である。ゲオルギーエフ氏は「ディルクセンの認証式に立ち会うため」と書かれているにもかかわらず、トマロフスキー氏によると、「軍事演習のとき」と、全く背景が違っているのはなぜだ。
 「情報本部が解説している」ことも見逃せない。この写真の出所はゾルゲが所属する諜報総局だというのだが、実はこの写真が撮影された明確な場所と日時は公開することができない性格のものなのだろう。勿論、使途もいまのところ真相はあきらかにされていない。
 もしゾルゲが自分の功績を誇示するために伝書使を用いてモスクワに送ったものであるなら、2年後になってから、何のキャプションも付けずにGRUに送っても新しい情報とは言えないだろう。事実、「満州国皇帝溥儀の横浜港上陸のとき」を「陸軍大演習のとき」にすりかえているではないか。これはかなり手の込んだ、意識的なものだ。この写真はゾルゲとは関係なしに、モスクワ当局に送られたもので、「ゾルゲが伝書使をつかって送ったもの」というのは事実ではないと断言できる。
 さらにエレーナ・カタソノワ著「現代ロシアにおけるリヒアルト・ゾルゲ」(「翻訳集」第4号)によると、「この写真は1939年に、ゾルゲ自身がモスクワに送ったものである」と書いている。ここに登場した6人(ウラジミール・トマロフスキー、カタソノワ・エレーナ、セルゲイ・ゴリヤコフ、ウラジミール・バニゾフスキー、アンドレー・フェシューン、ゲオルギーエフの各氏)はそれぞれ現代ロシアの著名なゾルゲ研究者たちであるが、各人各様に誤った写真の説明と撮影された時期の説明を加えているということは、この写真は送った年月も、誰が送ったものか、その経緯などは現在に至るも真相は明かすことのできない「極秘扱い」になっているということだ。
 だからそのときどきで変わった形で研究者が経緯も撮影月日も勝手に解釈して使っているのではないか。この写真については存在だけは明かにしたものの、その経緯については公開が禁止されているものではないか。それは公表をはばかれるNKVDとGRUに関する組織的な問題の何かが存在することを示しているように思われる。
 この写真がゾルゲの反対側から撮られているということは、ゾルゲ自身が撮ったものではないことは明らかだ。ゾルゲの失脚、または当局への密告を狙った謀略ではないか。だからゾルゲが祖国英雄とされ、評価が明確になったいまとなってはその出典も経緯も明かにできないのだと筆者は推測するが多分間違ってはいないだろう。

7)GRUはベリアのNKVDに支配された
 1937年にゾルゲを召還する命令が出たという、その時代こそスターリンの信任の最も厚かったラブレンティー・ベリアが、それまでエジョーフがスターリンの直接的なお声掛かりで1936年9月にNKVDに乗り込み、ブハーリンとも親交があったといわれる前委員のヤゴーダの息のかかった幹部を一掃し、スターリンから粛清の全権を委ねられて党、赤軍の上層部からはじまる大弾圧を実行した。軍も一時完全にエジョフの統制下に入った。しかし、1938年に入るとラブレンティー・ベリアはスターリンの意向を汲んで粛清の行き過ぎの見直しに取り組んだ。1938年8月にベリアはこうしてNKVDに送り込まれたのである。ベリアが支配するNKVDがこうしてGRUの実権を握って完全支配する時代になった。ソビエト体制のこの流れを理解しないとゾルゲの二重スパイ説がうまれたのかが分からない。まさに1937~38年はスターリン大粛清が頂点に達したときだった。
 1937年から40年にかけて12,832人の機関員が粛清された。こして最も価値のある情報源となったベルリンにあった「赤いオーケストラ」も活動を縮小してしまったという。(ポリス・スイロミヤトニコフ「ところで攻撃は電撃的に行われた」)ことを考慮しないと、ゾルゲ問題の解明はできないという。
 弾圧実行の最高組織は1923年、GPU(国家政治保安部)からOGPU(合同国家保安部)に改組され、1934年7月、これを母体にNKVDが誕生した。1940年~41年にかけて世界中に約200人の諜報員を派遣し、そのうちベルリンには8~12人ほどが活動した。戦後、NKVDに統合され、54年に国家保安委員会(KGB)に再編された。
 ゾルゲをコミンテルンからロシア参謀本部第4部(諜報総局・GRU)に受け入れたベルジン局長の時代には、GRUは独立していたが、ベリアがスターリンに次ぐ権力を握る時代になると、GRUはベリアが主導するNKVD(内務人民委員部)の支配下におかれるようになった。ゾルゲを語る場合、ソ連に於けるこのGRUをめぐる政治体制の変化と関係を無視しては語ることはできない。
 ベルジンは1936年、スペイン戦争にソビエトの軍事顧問として派遣され、コミンテルンのスペイン政策を批判したことで、スターリンから疎まれ、一旦はGRUの責任者に復帰し1936年6月までその任務に就いていたが、極東軍司令官代理として派遣されたが、いわゆる「赤軍大粛清」によって「人民の敵」とされて粛清された。(ゴルチャコフ、オビシイ・アレクサンドロビチ「見えざる戦線の司令官ヤン・ベルジンの運命」、『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社、所収)
 ゾルゲの指導者であり、上司たちはベルジン以下、歴代の諜報局長全員(最後の局長ゴリコフを除く)が「人民の敵」として粛清されているという現実をみれば明かであろう。論理的には「人民の敵」の配下であるゾルゲも当然「人民の敵」であるはずだ。それはコミンテルン時代のゾルゲがスターリンの宿敵ブハーリンの秘書役だったことがスターリンの不信を買ったのと同じ論理の当然の帰結なのであろう。
 「ゾルゲを売ったのは実は在日のゾルゲと対立するNKVDの組織である」という説があり、それがドイツ外交資料館に「スターリン密告説」として存在するということを筆者が朝日新聞社の「AERA」の記者から聞いたのは1994年のことだった。その真相を求めてモスクワでロシア公文書館になにかの資料がないものかと、ゾルゲ研究者やコンドラショフ氏(旧ソ連対外諜報員、退役中将)と討論を交わしてきた。
 ゲオルギーエフ氏によると、それを立証する文書があるという。NKVDの組織は自分たちの組織を守るためにゾルゲをうったのだという。しかし、コンドラショフ氏は「絶対にそんな文書はない」と頑強に否定した。しかし、否定すればするほどむしろ存在説の方が真実のように思えた。
 コンドラショフ氏は、ゾルゲが祖国英雄に叙勲されたとき、検討委員会の4人のメンバーの1人だった。ゾルゲに関するあらゆる資料を集めさせて検討したという。「その結果、ゾルゲが報告してきた情報は、もう一方の組織が提供した情報と比べて量、質ともに格段の差があった」とゾルゲの叙勲の理由を語った。
 それは問わず語りに、ゾルゲグループの他にもう一つの諜報組織(NKVD)が日本に存在していたことを示すものではないか。それはソ連大使館内で、ゾルゲグループと連絡をとっていた諜報員とは別の組織のはずだ。
 ゴードン・プランゲ著『ゾルゲ 東京を狙え』(原書房)にはその断片が語られており、ウイロビー資料にもその関連記事がある。日本にも野田べンジャミン英夫(日系米共産党員・画家)に関する記録がそれに関連して存在する。
 モスクワで交わしたそれに関連するコンドラショフ氏やゲオルギエフ氏たちの討論記録もわくわくするほど猛烈に興味のある記録だ。その討論記録(録音)も関係者たち全員が物故された今日では『ゾルゲ事件の謎を追う』(仮題・未完)で、やがて公表しなければならないと思っている。
 
8)ゾルゲへの疑いは晴れたのか─その結末
 トマロフスキー氏は次のように書いている。
 「ゾルゲがディルクセンと天皇と一緒に写っているということは、ゾルゲは完全に日独側についてしまったと見られたのです。ゾルゲは日独側のスパイ、つまり3重スパイであるという疑いが生まれてくるのです。彼は日独のスパイであり、ソ連諜報局に対して偽情報を流したに相違ない、というわけです。それで内務人民委員部の部長はゾルゲに帰国命令を出しました。それに対してゾルゲはいまのところソ連に帰国できない。今の時期は大変忙しい。ドイツ大使館の中で、情報担当になっているので、この情報活動に非常によい見通しをもっていると回答した。モスクワからさらに強く、どうしても早く帰還するようにと催促してきました。
 しかし、ゾルゲは『この仕事を破壊しないようにして戴きたい』と強固に主張しました。ゾルゲはソ連本国の諜報部のなかで、どんな状況が起こっているか、知らなかったと思いますが、なぜ、彼が日本に残ることができたのかは、関係資料がいまのところ未公開なので、私たちはどうしてゾルゲの帰国命令が解除される決定がとられたのか、今日は報告できません。もう一つ知られているのは、その機関命令を取り消したのは赤軍諜報局長代理のゲンジンでした。私どもの意見では彼が解任の取り消しを決めたと思います。
 なぜそれが可能になったのか、本部はどういう理由で帰還命令の撤回に動いたのか不明ですが、日本での諜報活動を弱めては困るということもあったでしょう。
 事実が大切です。つまりラムザイに対して二重構造の関係がありました。あとは結果的に日本に残れることになったのは、1941年6月22日のドラマチックなドイツ軍のソ連侵攻開始のゾルゲ情報の信憑性が確かめられたことです。
 このゾルゲがもたらした情報は正確でした。しかし、通報が目的地(スターリン)まで届かなかったことは非常に重要な問題でした。そのことはゾルゲの問題ではありません。このゾルゲがもたらした情報は正しかったので、中央に対するゾルゲの権威、立場は強くなって信頼が回復されたのです。
 とくに9月6日の御前会議の極秘情報を察知してその情報を正しくモスクワに伝えたことは大きかったと思います。『日本は南進を決定』。米英が攻撃の正面になるので、当面、ソ連に対する軍事的危機は遠のいた。
 アレン・ダレスはこの情報を高く評価しました。多分、この情報によって極東からモスクワ攻防戦に極東のソ連軍の師団を投入できることが出来、第2次世界大戦の帰趨を決める上で大きな役割を果たしたことを認めています。
 モスクワ攻防戦にドイツへの反撃を準備したのはちょうどこのときでした。このとき極東からの援軍がなかったならば、モスクワ攻防戦はどうなっていたか、疑問です」(『国際スパイ・ゾルゲの世界戦争と革命』所収「ゾルゲ博士の現象」)
 もしそうであれば、前述した「ドイツ側がインソンを潰そうとしないのは、彼を諜報活動のためにわが方に送り込むためである。これは41年8月の時点でのセンターの立場だった」というのは、「6月のドイツのソ連攻撃の情報を伝えたことによって、ゾルゲの評価は変わった」ということと、矛盾しないだろうか。この矛盾したゾルゲ評価はその後も消えることなく、ロシアの論壇に登場している。
 いずれにしても国際的に流布された「ゾルゲが天皇と一緒に写っている写真」の真実が明らかになった以上、その背景を明確に公表することがゾルゲ研究のさらなる前進につながり、矛盾する論拠に終止符を打つことになるのではないか。
 
あとがき
 この一文は2010年4月26日、露独戦争勝利65周年を記念して、在日ロシア大使館で行われた「第2次世界大戦におけるリヒアルト・ゾルゲの諜報活動の意味と役割」と題するシンポジウムで筆者は「尾崎秀実の上海時代の活動秘話─尾崎の帰国と32年末のスメドレー・尾崎会談の真相」を報告したが、レジュメ集が刊行されるので、急遽、遅ればせながら本論文の執筆を思い立ち、シンポジウムで報告する上記の論文の執筆後、急いで「調査ノート」をとりだしてまとめたもので、充分に校正する時間がなく、重複したり、書きたいことが欠落したりしている。しかし、意図するところは伝えられたと思っている。
 本文でも触れたようにこの情報は横堀洋一氏に1993年に教示されたことが出発点になっている。重ねて感謝の意を表したい。

2010年4月26日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study407:110830〕