*長文にわたるため、編集部で2回の掲載に分割いたしましたことをご了承ください。(ちきゅう座編集部)
第9回 ゾルゲ事件 国際シンポジューム
於 オーストラリア・シドニー工科大学
2015年12月4日
渡部富哉
1)語学の天才ブランコ・ド・ヴケリッチ
これまでゾルゲ事件について書かれ、また多く語られてきたにもかかわらず、ゾルゲ・尾崎秀実と並ぶ傑出した人物であるブランコ・ド・ヴケリッチについて書かれたり、語られることはこれまでなかった。GHQ・G2のチャールズ・ウィロビーによるとヴケリッチの妻山崎淑子について、「英語の達者なバーのホステスだった」(C・Aウィロビー『赤色スパイ団の全貌』)と書いている。朝日新聞編集員鈴木卓郎もまた「政界ジャーナル」(1990年1月号)で「若いころの淑子さんは英語の達者なパーのホステスで、云々とありました。その場に本人がいたのですから確かめることも出来たのに──以前はよく石井さんと混同されましたが、1990年にまだこんなことかかれるとは!」山崎淑子はこの点について非常に悔しい思いを筆者に手紙で書いている。
今回、ポール・ヴケリッチさんのご協力でオーストラリアでシンポジュームが開かれる機会に、ゾルゲ事件とヴケリッチについて、彼の家系と彼の経歴にもふれて、ヴケリッチの評価を全面展開するつもりで取り組んできたが、すでに「ゾルゲ事件研究」(第3号)【図a】
に、山崎淑子「ブランコ・ド・ヴケリッチのこと」、山崎洋「ヴケリッチ家のこと」などが掲載されており、さらにパソコンで「ヴケリッチ」を検索すると、筆者が報告しようとしていることは詳細に、かつ正確に記載されている。それが正確であることはその引用資料の紹介からも判断される。([参考資料]参照)そこでヴケリッチに関する経歴や家系【図b】
についての報告はポール・ヴケリッチ氏が報告すると判ったので省略することにした。
ひとつだけ追記したい点は、ヴケリッチは語学の天才だったということである。彼は「母国語のクロアチア語のほかフランス語、ドイツ語、ハンガリー語、英語、スペイン語、ロシア語も理解できた」というから9カ国語に通じていた。英語については日本に上陸するまでの船中で学んだとある。日本に滞在中に日本語もマスターした。特高警察の取り調べにはフランス語で通訳されて行われた。
ゾルゲの日本研究は「日本書紀」、「古事記」、「万葉集」、「平家物語」、「源氏物語」などを英訳、ドイツ語訳などで読み、「日本の古代史」や秀吉時代など上代からの日本の膨張史の資料を研究した。「もし私が日本の研究をしていなかったら、ドイツ大使館やドイツ人記者の間で占めていたような確固たる地位はとうてい獲得することはできなかっただろう」と供述しているが、それらはいずれも英語とドイツ語の翻訳であり、ゾルゲが日本語で書いた文書の存在は記録にはない。
ヴケリッチの場合は山崎淑子宛の獄中からの最後の手紙【図cde】
にも見られるように漢字まじりの日本語で書かれており、生前彼が印鑑に使っていた日本名は「武家利一」であり、彼の墓碑にも書かれている。
山崎淑子によると、「ブランコは分厚いシリアスな本を読むのが好きで、ひまがあると読書に熱中していたが、日本歴史にしても戦前の日本人がタブーであった中世の百姓一揆の研究書であったりして、強い印象を受けた」(『運動史研究』16巻)という。
彼の信念は「獄中手記」に記されているが、「手記」は他の被告と比べると極めて少ない分量で、(1)私がこの秘密組織に加入した事情、(2)私がこの組織に加入した動機、(3)我々の秘密組織の性格に関する私の認識、の10ページ分しかない。(『現代史資料・ゾルゲ事件』3巻)
ゾルゲ事件やコミンテルン史の著名な研究者石堂清倫によると、「ヴケリッチの手記に出てくるユーゴ時代の仲間の名前はふざけたことに名だたるファシストたちの名だった。ゾルゲグループに裁判所はからかわれていたのだ」という。
エディス母子のオーストラリアへ脱出・ポール証言の追跡調査
ヴケリッチの「第10回・警察訊問調書」【図f】(1941年11月20日)
によると、「本年春になってエディットから豪州にいるエディットの妹から書信があり、『出来れば来るように』と言ってきたので、『出来れば行きたい』とゾルゲに申し出た。ポールも12歳になったからいつまでも秘密な仕事をやらせておくことは出来ない、と。本部へ手続きし、豪州に行く時期について、なるべく早く、船便のあり次第ということになった。
本年(1941年)9月初め頃、ソルゲの家でゾルゲ、クラウゼン、私の3人で協議し、ヴケリッチから相当の金額(旅費と当分の生活費)を与えてもらいたいと提義し、ゾルゲの承諾を得た。その後、9月末にエディットは急に『アンフィ号』で豪州に行くことになった。私はその通知を受けず、『アンフィ』号が出発してから、エディットがその船で豪州に去ったことを知りました。」「子供のポールには出発の前に一目会いたいと思いましたが、それが出来ませんでしたので、10月5日にゾルゲの家で、クラウゼンと一緒になったとき、クラウゼンに「なぜ知らせなかった」と詰問して、ゾルゲに止められたのであります。エディットは自分から希望して組織を抜けて豪州に行ったのです。」
ヴケリッチはこのように供述している。組織からの手切れ金や、手当てなどについての供述はない。
このヴケリッチの供述はポール母子の追跡を晦ます虚構であったことが、それから57年という気の遠くなるような歳月を経て、ポール氏本人の口からその真相が語られた。
1941年8月21日、クラウゼン(無線通信士)より、ゾルゲはエディットが息子を連れてオーストラリアの妹のところに行くことについて、モスクワの許可を求めると共に、旅費として400ドルを請求した。電文の原稿をみたクラウゼンはこれではあまり少なすぎるとして、500ドルに書き換えて発信した。
イワノフ(元在日ソ連大使館付武官でマックス・クラウゼンと連絡をとっていた。戦後広島、長崎の原爆爆心地に調査にかかわった)の回想によると、「1941年夏、箱根地区のひなびた保養地を訪れたとき、ゾルゲの協力者であったヴケリッチと会った。」(「元ソ連軍事諜報員イワノフ退役中将の回想」ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集、№6、2005年2月)とある。エディットたちの日本脱出に絡んだ連絡もそのひとつにあったかもしれない。勿論、偶然ではない。
GHQ・G2のチャールズ・ウイロビーによると、「エディスが出発するに当たってゾルゲはクラウゼンを通して500米ドルを与えたが、クラウゼンはその金を彼女に与えなかった。そのためクラウゼンとヴケリッチの間に激しい争いが起こった。しかし日本の警察の記録によれば、ソ連本部は彼女に500米ドルの退職金を支払い、ゾルゲ自身から、1000米ドルの餞別が与えられたうえ、クラウゼンも若干それに加えたということになっている。」(上掲書)などと書いているが警察訊問調書の記録にはこの供述はない。
わが任務完了・速やかに日本を脱出せよ
ヴケリッチの「第9回警察訊問調書」(1941年11月19日)によると、ゾルゲたちの検挙の前日、尾崎秀実や宮城与徳と連絡がとれなくなり、気の滅入るような雰囲気の中で、日本脱出計画を話し合っている。
「クラウゼンは如何にしてもドイツに帰りたいと言い、私が帰る途はないではないかと言うと、両名は帰ろうと思えばなんでもない。抜け道はいくらでもある。船員になって行くのだ、と言った。」
ヴケリッチは自分の祖国はドイツに占領されていたが、ゾルゲとクラウゼンの二人が逮捕を免れて、証拠を隠滅すれば何とか方法はあると思ったのか、そのことは調書には記載がないが、ロバート・ワイマント著によると、「ドイツに戻る途はその気になれば簡単だ」と二人は言い返した。本部からドイツ行きの指令が出たら、何をおいても日本からの脱出の方法を考えなければならない。ゾルゲとクラウゼンはいかにも勝算ありありげな様子で話していた。「船員に化けて行くんだよ」と語った。クラウゼンは無線通信士になる以前は船員組合のオルグとして活動していたことがあり、その能力を買われて諜報機関から見込まれて、無線通信士になったという経歴だった。ゾルゲはといえば、極東からドイツまでフランスのボルドー経由でゴムを始めとした貴重な軍事物資を輸送する密行船を考えていたようだった。水上船で行くにせよ、潜水艦で行くにせよ、海路はきわめて危険なことは間違いない。イギリスの潜水艦やインド洋を巡回する巡洋艦に、絶えず追跡される危険にあった。
数日前の14日、エルザ・エスベルガー号が原料資源と日本製の魚雷30個を積んでドイツに向かった。恐らくゾルゲは、友人の海軍武官パウル・ヴネッカーが自分とクラウゼンをすぐに乗組員に加えてくれるだろうと考えていたのだ。ヴネッカーはこうした海上封鎖の突破を援護する重要な働きをしていた。
ゾルゲはドイツへの帰還に何の不安も抱いていないように思えた。ヴケリッチはゾルゲが新天地を求めて秘密組織を解散する気でいることを見て取った。「もうわれわれは日本ですることは何もない」そうゾルゲは言った。」(『ゾルゲ・引き裂かれたスパイ』【図g】360頁)
と書かれているが、この部分は供述調書書には、「わが任務完了」として日本脱出の方針を語りあったことが明らかになっている。
ポール・ヴケリッチ証言の追跡調査
今回のシドニー・シンポジュームが開催される遠因をたどると、筆者とポール・ヴケリッチ氏との全く偶然の積み重ねによる邂逅にある。
1996年3月31日、共同通信社が配信した、布施辰治(労農弁護士)が所蔵していた「国際共産党諜報団事件」についての記事「《ゾルゲ事件》摘発端緒は特高スパイ当局側資料【図h】
で判明 故伊藤律氏逮捕にも関与」が共同通信社から配信され、全国的に報道された。
当時、青森県黒石高校を卒業し、慶応大学に入学後、八戸市にホームスティしていたブランコ・ヴケリッチの孫娘(ポール・ヴケリッチ氏の娘ダイアンさん)が、祖父のことについて関心を持ち、「日本でゾルゲ事件に関する資料を集めている。彼女はオーストラリアに帰国するために、いま東京にきていて筆者に会いたい」と共同通信の友人から連絡があった。そのとき筆者は日程が合わず、ロバート・ワイマントに連絡して、二人を引き合わせた。
その後、ワイマントはダイアンさんから父親のポール・ヴケリッチ氏の住所を聞き出し、何回か連絡をとったそうだ。それから1年後に、ワイマントから「ポール・ヴケリッチ氏の聞き書」が筆者に送られてきた。筆者はロバート・ワイマント著『引き裂かれたスパイ』(新潮社)の最終原稿を読んで意見を述べた上、資料を提供したという関係で、彼のスマトラ沖の地震で不慮の死に至るまで交際が続いていたのである。
ポール・ヴケリッチ氏の「わが父ブランコ・ド・ヴケリッチの回想」【図i】は以下の通りである。
快適で楽しかった。住み心地のよい日本の家に住んだ。目黒にあるアメリカンスクールに通う。私の両親とともに日本人好みの野尻(湖)での夏休みを楽しんだ。ティリスト大使とそのご家族と一緒に、外国人好みの別荘地軽井沢の別荘に滞在した。
■日本出国の状況について。
エディット(注、ポールの母親、ヴケリッチの先妻)と私が、戦争の脅威にさらされている日本を去るのは、好都合だと思われた。デンマークをドイツに占領され、私たちの帰国は不可能だったので、エディスの妹、ガドレン・オルソンのいる西オーストラリアのフレマントルに行った。ゾルゲとクラウゼンの出会いについては覚えていない。
■ブランコについての思い出
記憶は定かではない。ブランコとはほんの2~3年一緒に暮らしただけだった。時折、電車で私を学校に送ってくれた。
母と私が1941年9月25日、または26日に横浜を発ち、本来は12~16人乗りの旧中国沿岸船が、英国人を主とした約400人の乗客を搭乗させたアンフェイ号に乗り、香港経由で西オーストラリアのフレマントルに行く前に、ブランコは私たちに別れを告げた。母と私は船内で唯一、英国人でも、米国人でもない乗客であった。
母とティリスト・デンマーク大使の親交は、私たちがこの避難船にいる重要な要因であった。香港への途中で台風に遭い、これは主に女性客や子供の間でパニックを引き起こした。低い場所の寝台デッキは水浸しになった。
■母エディットのゾルゲの回想。そして母とスパイ組織のつながりについて
修理のために停泊していた香港で、乗船していた他のジャーナリストに紛れていたアグネス・スメドレーに会った。ゾルゲスパイ組織のメンバーであるアグネス・スメドレーは、そこで母を見たときに、幾分狼狽した。
目黒の家に人が来たときには、私の列車セットがしまってあった最上階の部屋に通した。来客時には私は絶対にその部屋に入ることを許されなかった。かなり後になって無線メッセージが送信されていたのだということを知った。数匹のアフガン犬を飼っていた私たちの友人の一人である英国人は、憲兵隊に逮捕され、その結果自殺した。これは母にとって大きな痛手であった。
私は1988年、パリ南部の老人ホームで、フランス人ジャーナリスト、ロバート・ギランと出会った。彼はアヴァス(通信社)でブランコの同僚であった。
日本を去るにあたり、私が思うに、ゾルゲの組織と関係のある多くの写真が、母によって処分された。日本で、父が撮った数多くの私の写真からみてわかるように、父は熱心で、かつ優秀な写真家だった。
1936年、母は私を引き取るために、私が3年間をともに過ごした叔母のインガと祖母のアナ・オルソンのいるデンマークのコゲに戻ったが、クーリエが日本に戻るための旅費と切符を持って現れた。私たちはシャーンホースト号で海を渡った。これは後に、ドイツ海軍の小型戦艦になった。
■エディットに対するブランコの評価
エディットが妊娠したので、ブランコとエディットは結婚したが、恐らくこの結婚は決して幸せとなる運命ではなかった。二人はブランコが法律と建築を学んでいたソルボンヌ大学のあるパリで知り合った。エディットはオペアガール(子守)をしていた。この頃、ブランコはパリでプロボクシングの資格をとった(ボールはその免許状をもっている)。
■二人の離婚の背景
離婚をするかなり前に、山崎淑子から、一体どうやって彼女がブランコと築地の歌舞伎座で会ったのか、彼女に聞いたがわからなかった。(これは能楽堂の誤り)
■調査員の訪問
数回にわたってオーストラリア公安警察が訊問に訪れたが、母は日本におけるいかなるスパイ活動に関する情報もすべて否定した。私は日本での生活や、自分の日本人の友人のことについて、好意的に述べないように注意された。そして、さらに口数が少ないほうがいいとも言われた。へールスクール(高校の名)の学長もまた、当局の訪問を受けた。12歳の私にはこれは理解しがたかった。
■何時、何処で、私が父の運命を知ったのか。
国際赤十字が、1945年、ブランコの死を電報で知らせてくれた。エディットはアメリカ人著者コールドン・ストラングが彼に代わってゾルゲについての彼女なりの説明や思い出を説明したい、との話を、一流の弁護士デビッド・アンダーソン(現在は判事)からもちかけられた。彼女は、自分はこの件については全く知らないと主張した。
■バースでの初期の生活
1942年~1944年、私立のヘールスクール(学校名)に在籍。1944年シティ・コマーシャル・ビジネス・カレッジに在籍。バースのアルバート書店でメッセンジャーボーイとして初仕事。
■母エディットの生涯
妹のガドレンと暮らした。パートタイムで庭師(ガードナー)と保健体育の教師(1955年まで資格があった)をしながら、家族4人を支えた。1955年に、退職したデンマーク人船舶技師のクリス・ニールソンと結婚した。マラワに移り、スクールバス事業を共同経営した。後にドンガラに移り、ホリデーアパートとキャラバンの駐車場を管理した。1972年頃、バースにてクリスは死去した。
エディットは1986年10月までバースで一人暮らしであった。1987年4月ハンブリー老人ホームにてエディットは死去した。
この「聞き書」は当時、筆者が発行していたゾルゲ事件の端緒を警察に告げたとされてきた「伊藤律の名誉を回復する会」機関誌「3号罪犯と呼ばれて」6号【図j】
にこの証言の入手の経過とともに、次のような「解題」を付して掲載した。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study701:160122〕