チバリヨー沖縄 ! (下)

著者: 小原 紘 : 個人新聞「韓国通信」発行人
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韓国通信NO602

<基地さえなければ>
 沖縄の観光客が増え続けている。昨年2018年の年間観光客は1千万人に迫り、外国人観光客も300万人を超えた。基地だらけの沖縄にこれほどの観光客。基地がなければ、パリ、ニューヨーク、ハワイなんか目じゃない。五年前に訪れた宜野湾北谷 (ちゃたん)町は、返還されたバンビ飛行場の跡地を利用してアメリカンスタイルの商店、遊戯施設を作り、活気ある町に変身を遂げた。レジャーランド化して若者や観光客で大賑わいだった。北谷は脱基地のお手本とも言われる。

<読谷村 (よみたんそん)をたずねた>
 今回の旅で印象に残った読谷村。
 「鉄の暴風」というイメージは、沖縄戦最初の米軍上陸地となった読谷村と重なるが、読谷村は不死鳥のように生き返った。
 「平和共存・文化継承・環境保全・健康増進・共生持続」、「ゆたさ(・・・)ある風水、優る肝心、咲き誇る文化や、健康の村」を村づくりの目標に掲げる。全村が壊滅した挙句、95%が米軍に接収された村が掲げるこの言葉は重い。役場正面には「政府は日米地位協定を抜本的に見直せ」と大書した横断幕が掲げられていた。

<憲法第九条に込められた不戦の誓い>
 読谷村の小橋川清弘(谷村史編集/元読谷村立歴史民俗資料館館長)さんからお話を伺った。

 役場の入り口にある憲法第九条のレリーフから読谷村の平和への覚悟が伝わり感動した。村の形がオオトリ(鳳)に似ているのでオオトリが村のシンボルになった。「風水」※によって村役場を基地のド真ん中にしたという奇想天外な話。「風水」を根拠に、村役場など主だった公共施設を基地の中に作り、それが現在の村の中心になった。1997年に現町役場が完成。当時の山内徳信村長の「三代目 読谷村役場」という言葉が残されているので紹介する。<上写真/三代目読谷村役場> 村民あげての運動が実った喜びと決意が伝わる。※中国伝統の自然観のひとつ。都市、住宅、墓を地勢や方位、地脈、陰陽で決める。朝鮮・日本にも伝わり活用された。「鬼門」という言葉もその名残。

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 嗚呼! 遂に村民の夢が実現した 読谷村の自治の殿堂として米軍基地・読谷飛行場の真ん中に誇らしく自信を持って建っているお前は 三代目読谷村役場なのだ 由緒ある座喜味城を腰当に、風水よく鳳凰の島として建っているのだ アメリカ軍にも大和政府にも読谷村の読谷村民だ、と訴え続け、戦い続けた村民の勝利だ  読谷村の自治・分権・参加民主主義・平和の殿堂として村民とともに輝き未来に向かって雄々しくはばたけ 1997年4月1日  読谷村長 山内徳信

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<かがやく村>
 小橋川さんは読谷村場の名前が刻まれた石碑の前で、「すべての地域に住む人のための役場。一人ひとりが読谷の主人」と役場の使命を説明した。「主権者は国民」と謳った日本国憲法を地域で生かそうとする「読谷村精神」に感銘した。<左下写真/読谷精神を語る小橋川氏>

 読谷村は日本一人口の多い村。4万人を超えた。読谷村の次に人口の多い村は東海原発のある茨城県の東海村だ。基地と原発を抱えた二つの村。
 東海村の元村長村上達也さんに「東海村はいまだに何故、村なのか」と不躾な質問をしたことがある。「村こそ共同体の基本だ」」と彼は胸を張った。小橋川さんの話から、東海村の村上さんを思いだしていた。市町村合併が続き、道州制が浮上しているが、これは住民を効率よく管理するための主客転倒の発想だ。この時ほど「村民」になることに魅力を感じたことはない。

<悲劇を乗り越えて>
 1945年4月1日、雲霞のごとく押し寄せた米軍16,000名によって村はたちたまち占領され、村民は逃げまどった。読谷村の95%が米軍によって接収され、人権も生きる権利も奪われるなかで基地返還の運動が進められ、1997年には役場庁舎が、1999年には文化センターが基地内に建った。さらに2006年7月には飛行場の敷地190ヘクタールのうち140ヘクタールを返還させた。
 町役場の展望室から、小橋川さんは運動広場、野球場、文化センターなどを説明しながら将来構想を語ってくれた。現在でも村の36%が米軍の通信施設、弾薬庫として使用されているという。が。
 本土の捨て石とされ、日本から切り離され、復帰後は基地を押し付けられてきた沖縄の縮図といわれる読谷村から、厳しさの中にも前途に明るい可能性が見える。本土復帰後、知事となった屋良朝苗は読谷村出身である。山内元村長の、日本国憲法を村政の基本精神とした村政の実績が、花開こうとしている。住民福祉を第一に、文化、観光都市を目指している。

<チビチリガマを前に小橋川さんが語った90分>
 小橋川さんから読谷村波平にあるチビチリガマの悲劇を聞いた。米軍に追われ避難した村民約140人が米軍の投降の呼びかけに対して、竹やりで抵抗したあげく、壕の中で火をつけ、毒薬注射で自殺、包丁や鎌で首を切るという集団自決が発生し85人が死んだ。凄惨な死の実態は有志の実態調査によってやっと83年になって明らかになった。
 悲劇は続く。洞窟から遺骨が収集され、入り口に慰霊のために「平和の像」が建てられたが右翼の集団によって87年に破壊された。海邦国体(1987年)で起きた「日の丸焼き捨て事件」に対する報復だった。私たち一行6人は再建された平和の像の前で集団自決とその後のいまわしい事件の説明に耳をそばだてた。傍を流れる小川、鬱蒼とした樹々に囲まれたガマ(壕)の中は暗く、74年前の悲劇をそれぞれに思い浮かべながら90分を過ごした。
 「集団自決」は米軍上陸後、沖縄各地で起きた。子どもや仲間を殺した忌まわしい事件を知られたくない人が多く、未だに全容は明らかにされていない。
 同じ読谷村にあるシムクガマでは逃げ込んだ約千人の村民が全員投降したため全員が生き延びたという説明に耳を疑った。シムクガマにいたハワイ帰りの村民が、米軍と交渉したためだ。
 前者は日本軍の方針に殉じ、後者は交渉によって生きる道を選んだ。この違いはどこから生まれたのか。「やはり教育の問題でしょうね」、戦争の悲惨さといのちの尊さを教えない最近の教育を小橋川さんは心配していた。

<旅の終わりに>
 旅の最終日、私たちは読谷村座喜味 (ざきみ)にある「やちむん(やきもの)の里」をたずねた。陶芸美術館朝露館の関谷興仁さんを中心とした、今度の私たちの旅には欠かせない訪問先だった。やちむんの里の起りは17世紀に遡るといわれるが、その後衰退した。首里城下に集められた陶芸家による「壺屋窯」から1972年に陶芸家金城次郎氏(故人)が読谷に工房を移すと、中堅の陶工4名が共同登窯を築き、読谷山焼を作り始めた。その後、首里から多くの陶芸家が移り住み、沖縄を代表する焼き物の里になった。現在50余りの工房があり、多くの陶芸愛好家が訪れる。

 民藝の柳宗悦、濱田庄司らによって沖縄独特の美が評価された沖縄の焼き物は読谷村に引き継がれている。
 特に益子で活躍した濱田庄司が、「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と述懐するように、沖縄の陶芸と益子は縁が深い。広い敷地に工房、登り窯(写真上)が点在し、読谷村が誇る有力な「平和産業」となっている。実はこの地も米軍用地を利用したものだ。平坦地にこれだけ多くの工房が軒を並べて存在するのは珍しい。

 二泊三日の「琉球ぷらっと道中」。一行6人の平均年齢はおそらく70才を超えていたが、とても行動的で、沖縄料理にも観光地にも貪欲だった。今帰仁 (なきじん)グスク跡、恩納村の万座毛など沖縄観光の目玉と称される所もたずねては遺跡と豊かな自然美を堪能した。
 繰り返すことになるが、沖縄に多くの観光客が訪れ美しい自然と歴史・文化に驚嘆の声をあげる。その沖縄に日本政府は米軍基地を押し付け、さらに新しい基地を作ってアジアはもちろん世界に向けて軍事的威嚇を強めようとしている。非武装中立の琉球沖縄がアジアの交易の拠点となり交易と観光で繁栄する青写真もある。
 本土に住む人間として何ができるのか、本気で考える時が来た。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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