4人の女性たち
この『花と夢』は今年4月20日、春秋社から「アジア文芸ライブラリー」の第1作として出版されたものである。訳者は東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の星泉教授。チベット語からの翻訳である。
物語は、それぞれやむに已まれぬ事情を抱えてチベットの首都ラサへやってきた女性たちを中心に展開される。ドルカル(源氏名:菜の花、以下カッコ内は源氏名)、シャオリー(プリムラ)、ゾムキー(ハナゴマ) 、ヤンゾム(ツツジ)の4人である。彼女たちは近所の住民から密かに「ふくろう」と呼ばれながら、一つアパートで共同生活をしている。彼女たちの職業はナイトクラブ《ばら》のホステスである。
彼女たちはどういう経緯でラサへやってきたのか。
ドルカル(菜の花):彼女の父親は名高い石工であったが、自宅の新築工事をしていて屋上から転落、体が不自由になった。重労働が母親の肩にのしかかり、生活は苦しくなる。彼女は高校を中退して働かざるを得なくなる。ちょうどその頃求人にやってきたチベット小料理屋のママ、プティーに誘われてラサへ。ところがプティーは彼女に無理矢理ビールを飲ませたうえ、社長のカルマ・ドルジェに酔いつぶれたドルカルの体を提供する。ドルカルは絶望に打ちひしがれ泣き崩れるが、「権力を持った人間は、あたしたちの財産も権利も、果てはあたしたちの命までも奪っていくけど、誇りだけはあたしたちのものよ。絶対に渡さないんだから」と言い捨てて店を出る。街なかで《ばら》の募集広告を見て応募。4人の中のリーダー格。だが、悪性の梅毒を患い、術後も好転しない。
シャオリー(プリムラ):四川の田舎の生まれで実家は専業農家。故郷の大地は肥沃で天水も豊富であるが、自給自足がやっとである。村の若い男女は都会へ出稼ぎに行き、年末に大金をもって帰ってくる。畑地や家屋を貸して自分は都会に移住する者もいて、村には女、子ども、年寄りだけが残っている。継母は彼女を「目に刺さった棘」のように扱う。高校進学は認めてもらえなかった。父親は上海へ出稼ぎに出る。彼女は母方の従姉に同行してラサへ。エステサロンに就職するが、従姉が家賃と光熱費を出してくれるおかげで月150元の給料の中から50元を実家へ送る。やがて、客としてやってくる《ばら》のホステスの話を聞き、食べていくためには仕事の貴賤をとやかく言ってる場合じゃない、金を貯めていい家に嫁に行ってそれなりの暮らしがしたいと思うようになり、《ばら》へ転職する。
ゾムキー(ハナゴマ):チベット自治区東部に位置するチャムド市中心部出身。スタイルのいい美少女。高校2年生の時男友達と深い仲になり妊娠するが「俺の子どもかどうか分からない」と突っぱねられる。堕胎と入院。同じ病室で、流産のあと出血が止まらない妻を読経しながら懸命に介護する夫と、幸せそうな妻の様子を目撃する。しかし母親からは唾を吐きかけられ、教師や友達からは疎んじられ、居場所がなくなり、家から3000元を持ち出して家出。ラサで服屋に勤める。店は彼女のおかげで繁盛するが、老店主が彼女をしつこく口説いている現場を妻が目撃し、彼女をひっぱたく。ゾムキーは「さあ、給料を日割りにして寄越してよ。こんな気色悪い野郎、見たくもないわ」と啖呵を切り、顔に投げつけられた百元札を拾い、老夫婦に唾を吐きかけて店を去る。次の職場、ジュースバーでも人気者になるがその界隈のドンにしつこくつきまとわれ、店に迷惑がかかるのを恐れて辞める。街をぶらついているときに《ばら》の募集広告を見て就職。「母から受け継いだ、ツァリ山の竹のように細くしなやかな肉体と美貌、そしてあふれ出る若さ以外何も持ち合わせていない」彼女は、それを商売道具に生きていくことにした。しかし故郷を見捨てたはずの彼女は、新聞の人探しの欄に目を通し、ラジオの「声の便り」で自分の名前が出てこないか聞き入るのを日課とする。
そのうちに漢人の経営者に「僕の子どもを産んでくれれば正妻として迎える」と言われ、彼にだけ体を許すようになる。彼はある日、彼女を病院へ連れて行き検査を受けさせるが、その目的が梅毒検査であったと知り、「男なんてみんな犬。この世のカラスはみんな黒。白いカラスなんていなかった」と男に怒りをぶつけ、「あたしにわかるのは金勘定だけ」とうそぶき経営者と縁を切る。
ヤンゾム(ツツジ):13歳で両親と死別するが、18歳のとき村長の計らいで、県政府の長ニェンタク氏がラサに構えている私邸の家政婦として雇われる。ところがその家庭はほとんど崩壊状態にあった。ニェンタク氏は公務で忙しく家庭を顧みる暇などなく、妻のドルマは遊び歩いて家に落ち着かず、娘のランゼーは反抗期の真っ盛りで、友達の家を渡り歩いているうち、ついに家出して行方をくらます。そしてある日、ドルマは美しい盛りのヤンゾムに対する嫉妬心もあって、「私の財布からお金を抜き取ったのはお前だ」と決めつけ、それを庇おうとする夫と激しい喧嘩を展開する。ヤンゾムはニェンタク氏宛の書置きを残して家を出る。その書置きには、自分は無実であるがご夫婦の争いの原因になるので家を出ること、洗面道具や着替えなど持ち出すが、そのほかのお屋敷のものには一切手を触れずにそのままにしてあることなどが書いてあった。
かつて買い物帰りにドルカルに出会って電話番号を教えてもらっていたヤンゾムは、ドルカルと連絡を取る。
現代チベットからの発信
ドルカルの病状が小康状態を迎えた時、4人はそれぞれの今後について話し合う。その結果、ドルカルは治療に専念し、シャオリーとゾムキーは田舎へ帰り、ヤンゾムはラサに残ることになった。ドルカルの病状は術後も悪化するばかりなので、ヤンゾムはゾムキーを電話で呼び寄せる。ドルカルはヤンゾムとゾムキーに弟ツェリンが大学を卒業するまで仕送りを続けてほしいこと、自分の住所、職業、死亡について弟にも実家にも秘密にしてほしいことを頼んだ翌日に息をひきとる。ヤンゾムとゾムキーは簡素な葬儀を済ませる。田舎へ帰るゾムキーをバス停で見送ったヤンゾムはセラ寺を参拝したあと、茶館からぼんやりと外を眺める。物語の最終部分である。
*尼僧姿で真言(マニ)を唱えながら境内の階段掃除をしているプティーを見かけたヤンゾムは、彼女がかつてドルカムに対してどれほどひどい仕打ちをしたかを知っていたので、激しい怒りが込み上げてくる。しかし、プティーが唱えるマニを聞くうちに心が和んでいく。ヤンゾムはプティーに近づき50元を喜捨して立ち去る。
*チベット料理店の若い女性従業員たちが、胸を露わにしたしどけない姿でタバコをくゆらしながら、男たちに卑猥な言葉を投げかけている。ヤンゾムは彼女たちに「何とも言えないむなしさを覚える」。
*八世紀の高僧の像を据え付け、寝具と炊事道具一式を載せたリヤカーを引いて歩いて行く人物と、その後ろから五体投地を繰り返しながらポタラ宮に向かってゆっくりと進んでいる白髪の尼僧の姿を見かける。ヤンゾムはその姿に静謐さと神々しさを感じ、むくむくと信仰心が湧き上がってくる。「ヤンゾムに気づいた尼僧は五体投地を中断し、きらりと光る目で見つめ返した。尼僧は、目に涙をためて自分を見つめる若い娘に、慈しみ深いまなざしを向け、穏やかな笑みを浮かべると、再び五体投地を始めた」。
*「リヤカーと尼僧の後姿は、徐々に遠くおぼろになり、しまいには何も見えなくなった。」
私はこれら最後の描写の中に作者・ツェリン・ヤンキーのメッセージが凝縮されていると感じる。ここでヤンゾムはプティーへの怒りをマニによって乗り超えた。が、五体投地を繰り返しながらポタラ宮を目指す尼僧の姿が消えた向こうには何も見えない。
作者ツェリン・ヤンキーは尼僧を見送り切ったヤンゾムにどういう生き方を託そうとしているのか。天涯孤独のヤンゾムには帰るべき田舎がない。そしてラサは不毛な砂漠のようなものだ。私たち読者は、作者によって想像の世界へ放り出されてしまうのだが、その世界はしかし、現代チベットに生きる人たちが抱えている本質的な課題でもあるはずだ、と私は考える。つまり、私たちはこの作品が発信する課題をチベットの人たちと共有することになるのだ。そしておそらく、その共有者は今後、日本を含めた多くの国に広がっていくだろう。
チベット文学を読む楽しみ
作者ツェリン・ヤンキーのプロフィール、この作品の時代背景、輪廻転生と業報思想、チベットの社会状況と女性の置かれた立場などについては「訳者解説」に詳しい。チベットに馴染みの薄い私にとっては、「訳者解説」は作品の理解のうえで大いに助かった。とは言え、わたしはこれらの解説を理解しきったとはとても言えない。それだけにチベット文学は私にとって興味深い未知の世界である。ということは、チベット文学を読む楽しみがいっぱい残されているということである。
現在、チベットの文学者たちは近代化の波と伝統文化との間で、アイデンティティーを探し求め、世界にメッセージを送ることに力を注いでいるように思われる。『チベット女性詩集』(海老沢志保編訳 2023/03/31 段々社刊)に登場する詩人たちやツェリン・ヤンキーが、漢語ではなくチベット語を表現の手段として選択しているのも、こうした努力と関係しているのではあるまいか。 (2024/06/22)
初出:「リベラル21」2024.6.25より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-category-14.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion13770:240625〕