チャレンジすればまず失敗する。その失敗のなかから得たものを新たな力として、またチャレンジする。失敗しないように細心の注意を払い、最大の努力をもってしても、十回チャレンジすれば、十回失敗しかねない。でも、チャレンジし続けなければ成功もない。だからチャレンジし続けることになる。
もし、十回チャレンジして十回とも成功したとしたら、それはチャレンジと呼べるようなものでなく、できて当たり前のことをチャレンジと格好をつけて言っているにすぎない。当の本人も自分の脳力に自信を持っているだろうし、情けないことに、そのような部下を有能な部下と評価する上司が多いもの確かだろう。何をやらせてもそつなくこなす、失敗のないサラリーマン社員が高い評価を受ける企業文化がこれからも続くだろう。
では、いつも安全サイドで失敗しないチャレンジもどきをし続けた方がサラリーマン稼業としては得ではないか?確かに一面では、その通りと言わざるを得ない。しかし、本当の意味での、失敗しかねないチャレンジを恐れて、チャレンジもどきをし続けていれば安泰かと言えば、これも否だろう。
変化の激しい時代だ。いつもいつも安全サイドに身をおき、定年まで、あるいはその後も安穏とやっていけるような時代ではない。本当の意味でのチャレンジを避け続けていたとしても、長い一生のうちには、否が応でも本当のチャレンジをせざるを得ない情況に放り込まれる可能性が高い。終身雇用はほぼ死語になった。四十代で子会社に出向やら肩たたきにあうことも希ではない。こうなったときに、多くの失敗を経験してきた、本当のチャレンジをし続けてきた人と、チャレンジを避け続けてきた人とどっちがチャレンジする能力があるか?自明の理だろう。チャレンジし続けてきた人の方がチャレンジする能力が高い。安全なところに身をおき、失敗する可能性の高いチャレンジと呼べるチャレンジを避けてきたがゆえに、実はチャレンジする能力を失ってしまう。考えてみれば恐ろしいことだ。
サラリーマンででしかないにしても、できればこうはなりたくないと思う。ここで言っているチャレンジとは、破れかぶれのギャンブルのような試みを言っているのではないことをご承知頂いた上での話しである。
じゃあ、チャレンジするか、しないか?どうやって決めるのか?十中八九勝ちが間違いないからチャレンジするのか?これはできて当たり前の、せいぜいチャレンジの延長線ででしかない。五分五分ならチャレンジするか?違う。チャレンジしてたとえ失敗しても、再起不能に陥って、次のチャレンジができなくなる可能性がないのであれば、チャレンジした方がいい。たとえ失敗しても、必ず何か拾う、新しい知識や経験を得ることを念頭においてやればいい。失敗すればなんらかの痛みが伴う。この痛みはチャレンジする能力を少なくとも保つ、あるいは高めるためにかかるコストとでも考え、チャレンジできるうちがはなと割り切ってチャレンジし続ける以外にできることはない。
チャレンジして失敗するより、チャレンジしなければならない状況に陥って、自分にチャレンジする能力が全くないことを思い知るほど恐ろしいことはないと思うのだが。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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